「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 1/3(前編) 自然は存在しない!?
「池の水ぜんぶ抜く」という企画が存在するが、それが環境に及ぼす影響を考えたことはあるだろうか。
池の整備や外来種の駆除などそれぞれ目的はあろうが、共通しているのは池の水をほとんど吸い上げ、生き物をさらったり、底の泥を漁ったりしている事だろう。これにはデータを基にした合理的なものや、「キレイにしたい」という恣意的なものもあるだろう。
そこで、この行為が許されるか否かを述べてみたい。
つまり、環境に手を加える行為は許されるのかを考えてみたい。
そこで、前後編と展望編の計3回で、以下のようなタイトルを扱いたい。
「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 1/3(前編) 自然は存在しない!?
「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 2/3(後編) 人工物は自然物!?
「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 3/3(展望編) 処理水も自然物!?
注意
以下の3点に注意されたい。
筆者は生物学にも行政学にも無学な門外漢
素人のいい加減な意見
過激な言い回しがある
これでも問題ないと思う方には、ぜひ読んで欲しい。
1:「人間は環境に手を加えるべきではない」としよう
今回は前編なので、「人間は環境に手を加えるべきではない」ことを述べる。それにあたって、これを支持する思想を示しておく。
「人間は自然の一部ではなく、生態系を傍観する存在である。」
この思想を基に今回の「池の水ぜんぶ抜く」を見て行こう。
池の水を抜いた後に行われる行為は外来種のさらし上げである。外来種をまじまじと見つめ、匂いを覚える警察犬のごとく、解説を聞き入っている。
その先にあるのは、「外来種=悪」の等式である。勧善懲悪もののように、在来種という「弱きもの」を守るために「悪」である外来種を滅ぼすという、気持ちのいい物語が生まれる。
そして、忘れてはならない過程を見過ごしてしまう。それは、、、
「在来種も同じ目に遭っている」ことだ。
2:在来種は大丈夫?
最終的に外来種は駆除され、在来種は同じ池に戻されるが、その途中で同じように(大袈裟ではあるが、)蹂躙されている可能性がある。
例えば、オニヤンマは幼虫である約3年間、小川や池の底の泥に潜って生活しており、小魚や小さな昆虫の幼虫(カゲロウなど)を食べている。彼の視点で、「池の水事変」を考えてみよう。
まず、池の水が抜かれると住処を追われる可能性がある。生きられる泥の面積を徐々に減らされ、天敵も含む他の生物と接触しやすくなる。それどころか、人間がずかずかと入り込み、踏みつぶされる可能性すら出てくる。
しかし、地獄はまだ終わらない。ここから、網を用いた乱獲が始まる。大きな生き物を捕らえるための大義名分(保護や駆除)を掲げ、泥ごとかすめ取ろうとするのだ。
それによって、小さな生き物が在来種・外来種問わず蹂躙される。水に上がっても地獄だ。木の枝と見分けがつきづらいため、生き物として扱われず、潰されかねない。
しかも、生き残っても地獄だ。ほんの数時間、数日前とは異なり、「キレイ」で食物が何もない空間になっているかもしれない。そうでなくても増えることは決してない。もし増やそうとして、外から別の生き物を持って来ようものならば、それこそ池から見た「外来種(外から来たもの)」に他ならない。
3:「たかが昆虫ごとき」?
ここで、「たかが昆虫ごときが」と思っている者もいるかもしれないが、それは有ってはならない傲慢だ。
昆虫が生態系にもたらす影響は計り知れない。ハエも分解者として貢献し、ミツバチも花粉を運び、植物の育成を直に手伝っている。そして、他の大きな昆虫が彼らを捕食することで数を制限し、また捕食されることで更に大きな生態系に寄与する者もいる。
その中に、池の中で生息する昆虫がどれほど居ようか。そのような考慮ができる者が上述のような傲慢で短絡的な発言をするだろうか。
4:我々がすべきことはあるのか?
今回の論点はここに集約されている。すなわち、「環境への影響を本当に把握できているのか」ということだ。
外来種と言っているが、その正体は何なのだ。外来種扱いをしていないだけで、ずいぶん昔に外から来て、あたかもそれ以前から居たかのように振舞っている生き物もいる。
結局、我々はどうすべきなのだろうか。その答えはまさしく先述の思想になる。
「人間は自然の一部ではなく、生態系を傍観する存在である。」
よく環境保全という言葉を見聞きするが、これは一体何がしたいのか。過去にあったはずのイデア的な「自然」を追い求めて、今ある自然をいじくることなのか。それは「外来種が来てから長い時間が過ぎて形成された、新たな安定した生態系」さえも破壊することなのか。
もちろん、人間の手で新たな外来種を放つことは看過できない愚行である。しかし、むやみやたらに環境に手を加えることも、同様に環境保全に反するように思われないか。
5:「守りたい自然」はどこ?
そもそも、守りたい「自然」とはどこにあるのだろう。二酸化炭素濃度も気温も変わり、ダムを作れば水位も変わる。森林開発で木も変わり、廃棄物で土や水質も変わる。すべて人間の影響が垣間見える。
そんな刻一刻と変わり続ける自然が「守りたい自然」なのか。環境保全家が抱いている「自然像」は、最大の「外来種」である“人間”からの影響を考慮していないのではないか。
すなわち、人間の手が入っていない本当の「自然」は存在しないのではないか。
したがって、この議論は「そもそも自然とは何なのか」に帰着する。しかし、上述の思想では本当の自然が存在しないことになってしまう。
そんな訳がない。
我々が恩恵を享受し、思い偲ぶ自然は必ず存在するのだ。
ではどこにあるのか。それを後編で述べて行こう。
余談
ここまで読んでくださり、誠にありがとうございます。加えて、駄文・悪文を垂れ流してしまい申し訳ございません。
しかし、後編はもう少し温和な論調で進めるつもりですので、どうか見て行ってください。よろしくお願いします。
また、筆者は強い口調で書いておりますが、そんな偉い人間ではございません。どうか真に受けないよう、重ねてお願い申し上げます。
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