見出し画像

わかしょ文庫著『ランバダ』(わかまつ書房)

「祖父の葬式のことを思い出していた。祖父は五年前、農作業中に祖母に車で轢かれて亡くなった。」

 偶然ツイッターで冒頭の数行を読んだ瞬間、これは読まなくてはならない文章だと咄嗟に思った。そこには、祖父が祖母に轢かれてしまうというあまり耳にしない不幸を好んで読む悪趣味な私がいたのかもしれない。だが、文フリの会場で読み、あらためて確信を得た。私だけではない。これはもっと広く読まれるべき文章であると。ところが、読みだすと止まらないのに、それを文章で説明しようとすると途端にわからなくなる。わからないから繰り返し読む。そして、並んだタイトルを見て、ふと気付いたのだった。『ランバダ』は記憶の再生の書だ。
 「祖父の葬式」では、祖母やしゃしゃり出てくる親戚のおばあさんの振る舞い、田舎の町内会館の葬式。克明に記憶した一つ一つの情景の奇妙さが語られるが、壮絶であったはずの死とその周囲の様子がとてもスラップスティックに写る。奇妙な居心地の悪さと共に読みすすめると、中盤予想に反する筆者の告白からの急展開が起こる。そしてこう言うのだ。

「死を悼むことができなかった。祖父の死はただ祖父の死という事象として目の前にあった。わたしが向き合うべきであった人間と永遠に向き合うことができなくなったというただそれだけだった。」

 経緯をよく知らぬ私に何かを言う資格などないが、おそらく著者はこのエッセーを書くために、自身の頭の中の記憶を擦り切れるまで再生したに違いない。私たちに備わっているこの記憶とは一体何なのだろうか? このように記憶というものが私たちを過去に縛り付け、ただ記憶を再生するものを苦しめるだけのものであるのなら、あまりにも救いがない。だがしかし、『ランバダ』は再生を通じて、私たちが見落としていた何かを見つけ出し、世界を肯定的に捉えることが可能なのだと教えてくれる。記憶の再生を通じて見出された奇妙な世界を私は覗き見て、読むのをやめられなくなったのである。
 岩見沢市に住む「理想的なやさしいおばあちゃん」である母方の祖母の記憶が怪しい。野球観戦の約束を思い出させるというミッションを託された筆者だが、なかなかうまくいかない。けれど、筆者は記憶の再生を通じて、「旅行の話をしている祖母は、心底たのしそうだった」と思い出す。「できることなら全て覚えていてほしいが、無理なら楽しかった思い出だけでもいい」と言い、祖母がかつて見せてくれたキレのいいダンスをまた見てみたいと言う。(「岩見沢市のサラギーナ」)
 記憶の中で「常に怒ってい」て、「いつも何かに腹を立てていて、ときには冷たく、軽蔑したように嘲笑う」高校時代の吹奏楽部の先輩は、実は「誰よりも自分に厳し」く、「思うようにトランペットを吹けない自分の不甲斐なさに、心底腹を立てていた」と気づく。怖がっていた先輩から突然連絡が来て、数年ぶりに再会すると、すっかり先輩は優しくなっていた。「わたしをあれほど怖がらせ、恐ろしい思いをさせた先輩はもうこの世のどこにもいなくなってしまった」が、「昔がどうだったかはもはやどうでもよく、……わたしたちはまだ若いのだから、定期的に会えばいいのだし、別の思い出を作ってもかまわない」と言い、記憶に固執することはない。(「犬のメロディ」)
 一人一人が記憶を持ち、一人一人が記憶を再生しながら生きている。それはごくごく個人的な行為であるようでもあるし、一方で一人一人の「わたし」はあらゆる側面のモンタージュにすぎず、オリジナルには程遠く、いくらでも代えが利くもののようである。だが、このモンタージュにすぎないわたしの前に一筋の希望が存在すると筆者は言う。それは「わたしと時間を共にしてくれたあなた」であり、「共に生きた記憶だけが人をかけがえのないものにするのだ」と。何かを共に記憶し、思い出すことは代えが利かないのだ。私は一文一文を噛み締めながら読んだ。記憶し、記憶を再生することは、まさに生きていくことそのものなのだと、『ランバダ』は教えてくれる。


*『ランバダ』は著者の「ランバダ」シリーズのわかしょ文庫(@awadateki)さんから直接DMで購入できるそうです。

よろしければサポートをお願いします。いただいたサポートは原稿執筆のための書籍購入や新刊製作に活用させていただきます。