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現代における伝統音楽の意義

音楽教育研究という雑誌の中に父・入野義朗が寄稿した文を見つけたので、データ化してみた


音楽教育研究 No.40(1969年8月)p12-19
特集 日本の伝統音楽と教育
その1 伝統音楽と教育の接点

「現代における伝統音楽の意義」 入野義朗(桐朋学園大学教授)


 伝統と現代とがどうかかわりあっているのか、またはどうかかわりあうのがよいのか、といった問題は古くて新しい問題である。特に芸術の世界においてわれわれはいつもこの問題とむかいあっているといってもよいほどである。

 今回のこの文章は、中学校の鑑賞教材にいくつかの伝統音楽が加えられたことをもととしてこの問題を考えよう、 というのが主旨なのであるが、私は特に鑑賞教材の問題プロパーを論ずるのでなく一般的な立場から伝統を考えてみたいと思う。

 伝統という言葉はわれわれに固定化したイメージを呼びおこしやすい言葉である。ことに伝統音楽、というようないい方をしてしまうと、それは相当に限定された意味のものになってしまうのである。

例えば、中学校教材にどんなものが入れられたのか、というと次のようである。

中一 箏曲 五段砧
   三曲 四季の眺め
中二 長唄 小鍛冶
   雅楽 越天楽
中三 尺八 鹿の遠音
   義太夫 三十三間堂

 これらはつまり、いわゆる西洋音楽が日本に入ってくる以前から日本に存在していた音楽の種々な様式を集めたものだ、といえるだろう(もっとも謡曲などが含まれていないが、そうした選曲の問題はここでは取り上げないでおこう)。

 ということは、伝統音楽というものの定義があって、それにあてはまるものを選ぶ、というよりは、現在のところでは、こうした種類の音楽を総合的にいいあらわす適当な言葉がないので、とりあえず伝統音楽という言葉を用いたように思えるのである。

 こうしたジャンルの音楽をあらわす言葉には、例えば、 もう一つ「邦楽」という言葉がある。しかし私にとっては「邦楽」というといわゆる近世の、江戸時代を主とした音楽のような印象をあたえる。つまり雅楽のことを邦楽というのはどうもぴったりしない感じなのである。ところが吉川英史氏はこの邦楽という言葉を非常に広く解釈して、西洋の音楽に対する「邦楽」というふうにしておられる(同氏の「邦楽鑑賞入門」参照)。 このようにとれば 伝統音楽といわれるものはすべて「邦楽」の範囲に入るわけであるが、同氏は「現代邦楽中の器楽」もこの邦楽の中に入れておられるので、この点では伝統音楽という範疇とは矛盾してくるようである。

また「日本音楽」という言葉が一時用いられたことがあったが、これも曖昧な概念である。小泉文夫氏は その著「日本伝統音楽の研究」の第一章で概念規定をするにあたって、この言葉をとりあげて次のようにのべておられる。

 「......日本音楽という言葉を使うと、いろいろな解釈が 成り立つ。.......日本人の作ったものであるとすれば、....... いわゆる洋楽も含まれる......し、日本で発生したものであるとすれば、雅楽や声明のあるもののように外来のものは一切含まれないことになる......」

 たしかにその通りで日本に存在する諸々の音楽は一筋縄では行かない複雑な要素を持っているのである。われわれがよく外国人から日本の伝統音楽と現代の関係について質 問されて困るのはこの点なのであって、古来からの各種の音楽の並存状況を外国人に納得させるのは非常に困難なことだと思う。

 話をもとに戻して、「伝統音楽」という言葉の定義を考えると、小泉氏の用いている意味がまた、この中学校鑑賞教材選曲のもととなっている概念としちがっているように思われるのである。つまり小泉氏は「民謡も、やはり伝統音楽の中に含まれる」としておられるのに対して、鑑賞教材においてはあきらかに民謡は除かれているからであ る。

 私はいまここでどちらの範囲がよいか、といったような言葉の定義についての是非論を展開しようとは思っていないし、また現在はそうした定義の混乱が示しているような過渡期であると思うので、早急に是非をきめる必要はないように考えている。しかし日本人が自分の国の音楽のあり方をどのように受けとめているか、という点は決してゆるがせにできない事柄であろうし、われわれ一人一人がよく考えてみなければならないことだと思っている。

 それでは伝統とはどんな性質を持っているものであろうか。

 伝統はまず、ある程度の年月、その民族の中に根づいて生きてきたものでなければなるまい。その年月がどのくらいであれば伝統といえるのか、ということはむづかしい し、また客観的な基準もあるまい。たとえば浪花節であるが、これは歴史的にいえば非常に新しい音楽である。現在の形に完成させたのを雲右衛門であるとすればそれはすで に明治の中頃であり、西洋音楽の輸入よりも時期的に新しいということになる。しかし、浪曲がそれ自身で突然出現したものでないことは当然で、その源流をたずねてゆけば古い民族の伝承につながってゆくということになるであろう。

 ということになれば、その伝統とは、日本人が持っている音感といったような言葉であらわさざるを得ないのであろうか。仮にそういう日本人の音感というものがあるとして、それは何をもってはかることができるものであろうか?

 これについて考慮すると当然に、前出の小泉氏の文章にもあらわれていた「雅楽や声明」などの外来の音楽の問題につきあたる。周知のように雅楽の曲の大きな部分は外来の曲であり、音組織や楽器なども輸入先の国によって異なるものがあった。少なくとも輸入した直後の奈良朝におい て、それらの音楽は非常に異質な感じをあたえたであろうことは想像できる。しかし今日ではそれは誰もが日本の伝統音楽であると考えていることもまた事実だといわねばなるまい。

 音感というものを端的にあらわすと思われる音組織においても日本の音楽は複雑な様相をしめしている。民謡については小泉氏の前掲の本に非常にすぐれた分析があるのでそれを参照されたいが、とにかく日本の民謡の大部分が統一された原理に基づいて構成されていることは明らかであり、これは日本民族の音感の根本をなすといってよいものだと思う。

 しかしそれだからといって謡曲の特殊な音階はまったくの異物である、ということは不可能であろう。謡曲もまた日本人によって展開され数百年にわたって伝承されてきた のであって、これまた日本人の音感の一部をなしているのは当然であろう。

 吉川氏は西洋の音楽と日本の音楽との歴史的発展の仕方を対照的にとらえて次のように要約しておられる。

 「西洋音楽史が、直線的に集約的に変遷したのに対し、日本音楽史は......細胞分裂的変遷をなしてきたのである」

 こうしたとらえ方は私も大筋においてうなずけるものがある。

 もちろん、西洋の音楽も、電子音楽が公開される一方で教会ではグレゴリオ聖歌による礼拝が行なわれ、古典派、 ロマン派の音楽が音楽会のプログラムの主要な要素であるとはいいながらも、バロック以前の音楽がやはり根強い聴衆を持つなど、まったく一直線に進んできているわけではない。しかしヨーロッパにおいてはその変遷の筋道は一本であって、はっきりと見通されており、論理的な発展をしていることがわかるのである。

一方、日本は島国であって外国との交流が間歇的(少なくとも現代を除いては)であったという条件があり、またその刺激をうけやすく、うけ入れるのを好むという民族性があったようである。そこに多様な要素が並列的に伝承されてゆく基盤があったように私には思える。

 例えば奈良朝であるが、あの時代はとにかく、中国の文化に圧倒され、全面的にうけ入れた時代であろう。政治の体制も無論のことであったが、文化の輸入においても完全 に無条件降伏であったといっても差支えないほどであった。どれほどの労力と費用をついやしたかは想像するほかはないが、今でいえばオーケストラを輸入して宮廷で丸抱えにしたようなものであるから、当時の財政としては巨額の出費であったろうし、それをあえて行なったところに当時の日本人の姿勢というものがうかがわれるのである。

 日本人のそうした外来物崇拝の姿勢は今に至るまで変っていないのは御承知の通りで、これはあまりほめた姿勢でもないのだが、次に面白いのは、そのように始めは無批判に受け入れるようでいて、それをいつのまにか自分のもののようにしてしまうことであろう。

 日本の文化はよかれ悪しかれ、このような経過を辿って変遷してきたのであって、前に引用した吉川氏の指摘の部分である「細胞分裂的変遷」ということも、こうしたところから由来しているのではないかと私は思うのである。

 もう一度だけ吉川氏を引用させて頂こう。それは日本音楽史の時代区分であって、これは定説になっていると思うが一応前掲の著からとると次のようになっている。

 ⑴原始日本音楽時代(原始時代—推古天皇)
 ⑵外来楽輸入時代(推古天皇―奈良朝末期)
 ⑶外来楽消化時代(平安朝初期―平安朝末期)
 ⑷「民族音楽興隆時代(鎌倉時代初期―室町時代末期)
 ⑸「民族音楽大成時代(室町時代末期―江戸時代末期)
 ⑹洋楽輸入時代(明治時代)
 ⑺洋楽消化時代(大正時代―現代)

 こうしてみると奇妙なことに気がつく。それはすなわち最初の「原始日本音楽」というものがほとんどわれわれの視野には入っていない、ということである。確かに時代的に非常に古いものなので記録的に不確かであったり、プリミチブに過ぎるという点はあるかも知れないが、日本の伝統音楽を問題にしようかかわりあいという問題もまさにここにある。すなわち輪入された洋楽とこれまでの日本の音楽とがどういう関係にあるか、という点にあることは疑いを入れない。

 そうであるとすれば、この時代と⑵⑶との時代の対比が問題になってくる。この時代区分ではあきらかに⑹⑺の両時代が⑵⑶の両時代に対応するものとして構想されているのである。

 前にものべたように、奈良朝においては唐の音楽制度を全面的に輸入したのであって、唐のものは絶対にすぐれたものである、という観念で無条件でとり入れたのであった。

 これに対して明治時代はどうであったか。この場合、やはり西欧文明絶対観があったことは疑いを入れない。こうして明治以後の日本における音楽の体制は公式には西欧の音楽を中心として作られてきたといってよい。

 ただし、ここで日本の伝統音楽(今までの議論で大体この言葉の意味するところはおわかりになったと思うので、 これ以後はこのまま用いることとする)がなくなったのではもちろんない。社会生活の中ではそれはもちろん、それまでと同じ形で生き続けた(幾分の消長はあったとしても)のであった。 つまり学校教育といったような公式の場では日本の伝統音楽にふれることがほとんどなくなってしまったのであったが、歌舞伎の音楽が洋楽になってしまうことはなかったし、三味線や琴は家庭の中でも決して消えてしまうことはなかったのである。

 こうした点は奈良朝と明治時代の時代的な相違というものを考慮に入れなくては、議論そのものが空まわりしてしまうことに注意せねばならないと思う。私は日本音楽史の専門家ではないので、奈良朝の外来楽がどの程度に民族全体に影響を及ぼしたのか知らないし、その前の日本の固有の音楽というものがどういう形でそれに反応し、まじっていったのかも知らないのであるが、現在保存されている音楽から論ずれば、外来楽の輸入と消化というのがこれらの時代の大きな課題であったことはまず間違いがない。

 これに対して明治時代の大きな違いはそこにすでに民族音楽の大成時代を経験していることであろう。前にものベ たような日本民族の平均的な音感というか、ほとんどの人に共通した日本民族的なものと思えるような音楽の形態は明治時代に入る前にすでに非常に強く確立されていたのであった。

 逆にいうと、それにもかかわらず、再び明治時代において西洋音楽一辺倒に走っていったというところに、私は日本民族の不思議な性格を見たいと思う。

 ここで再び、伝統ということの意味を考えてみたいのだが、それは確かにある年月をこえて伝承されて、何代にもわたって自分たちのものであると思えるものでなければな らないと同時に、また現代の人間にとって何物かを訴える力を持っていなくてはならないのだと私は思う。いかに古くからの伝承物であっても、それが現代のわれわれと何の関係のないものは単なる遺物であろう。考古学的な遺品もそれを作ったであろうわれわれの祖先の努力を思い、それを使用した古代人の感情を追体験する時にわれわれははじめて、それら祖先とのつながりを感じるのではないだろう か?

 特に音楽のような芸術は、どんなに古い作品であってもその時々の人間が音に再生しない限りは新たな生命を得ることはないのであって、それが伝承されてきたということ そのものだけでも、それがわれわれの心のどこかにはっきりと生きつづけてきたことを証明するものなのである。

 そしてその流れは現代までも絶えることなくつづいているのだと私は思っている。

 このように考えてくると、現代における伝統音楽の意味というものも、結局は音楽の本質というものをどのようにうけとめてゆくかという問題に帰着してゆくような気がする。

 われわれが明治時代以前に作りあげていた文化は、それはそれとして一つの充実した世界であったことは確実であった。その中にはヨーロッパ文化が作りあげていた性質が欠けていた面があったのはもちろんであるが、それではヨーロッパの文化が完全なものかというとそれはそれで完全とはいえないながらも一つの充足した世界であった、といえるだろう。

 日本にとっておそらく不幸であった、といっていいことは日本がヨーロッパに眼をむけた明治時代のヨーロッパが それ自身の文化において非常に高い完成度に近づきつつあったことであろう。明治の日本人はおそらくそれをあまりにも性急にとり入れようとしすぎたのである。

 私は西洋音楽をとり入れたことそのものは決して悪いことだとは思っていない。現に私自身、日本の伝統音楽のことよりは西洋音楽のことをより多く研究しているし、また 西洋音楽を日本の中に定着させることにかなり努力しているつもりでもある。しかし私は西洋音楽のために日本のこれまで育ててきた音楽を捨てようとも思っていないし、捨 てられるものでもないと思っている。

 私がむしろ考えているのは、日本人には西欧文化の本質が理解されうるものかどうかということである。

 これだけ西欧風になり、西欧文化を取り入れるのに熱心な日本人についてそういう心配をすることは誠に滑稽であるかも知れないが、私には時々そういう感じがするのである。その理由の一つは日本の文化のこれまでの進み方の傾向にそういう面がみえることである。これはやはりまた島国という性質で解釈すべきことであるかどうか―――私には特に結論を出す勇気もないし、知識もないが――物事を徹底しておいつめずに適当に処理してしまうという技術にわれわれがたけていることは事実であろう。例えば昔われわれが習った漢文のかえり点などの発明は誠に日本的なものといえるのではないだろうか。かえり点の技術に習熟すると確かに漢文の文章がよめるようになるのだが、それは日本語として読んでいるのにすぎないのであって原語の構文はまったく無視されてしまっているのである。つまり元来の文章は破壊されているにもかかわらず、それを理解したつもりにさせるという効果をもっているわけである。

 これを音楽のほうでいうと例えば解説の氾濫がある。大抵の音楽会のプログラムに曲目解説がついているが、また「名曲解説」のたぐいの本も実に多く出版されている。たくさん出版されているということは、すなわちそれだけ需要が多いからであろうが、それはまたいかに洋楽が「教養」としてうけ入れられているか、という証明でもあると思う。つまり、そこには芸術本来の姿であるべき「きいて楽しむ」という形が後退して、「知識」としてうけとるという形が前面にでているとしか思えないのである。 ベートーヴェンのソナタ形式における第一主題と第二主題のからみ合い、その対立から生じる緊張などといった音楽的出来事は単に楽式上の問題ではなく、ベートーヴェンの音楽思想そのものに根ざしていることに気づくこと、いやベートーヴェンの音楽をきくことはそうした思想を理解することである、ということに思いをいたさなければ本当に音楽を理解したとはいえないはずなのである。

 しかし現実には知識として、教養としてのベートーヴェンでありブラームスである場合があまりにも多いように私 には感じられてならないのである。

 今の私は少し極端に強調したのであるが、要は西洋音楽の隆盛がうわべだけのものではないのかという危惧と一方では伝統音楽はまだ表面には出ていないが、それだけに根強い流れを作っているのではないかということであった。 .これに対して、いややはり西洋音楽が今や民族感情としても主流になりつつあって、これに対して古来の民族感情 を忘れては困るのだ、という議論が生じると思うし、今回の鑑賞教材選定はむしろこのほうの気持に基づいているもののように私は思うのである。

 しかし、私は単なる伝統尊重が悪くすると死物の遺品を尊重する結果になることをおそれるのである。前にも論じたように、伝統は人から人へ、世代から世代へと生きつづけてきた時に本当に伝統としての光を放つのであって、すでに生きるのをやめてしまったものは、学問的研究の対象とはなっても伝統としての価値はないと思うのである。

 最近、作曲家の間に伝統的音楽を見直す機運がみえることは、とりもなおさず日本の伝統が生きていることであるが、そうであるからといって、作曲家に古い伝統の形そのままをひきつぐことを期待するのはおかしいのであって、 新しい創作によって新しい形へと変っていっても生きて続くことが伝統なのである。そしてまた洋楽との関係を論ずるならば、それはあくまで西洋音楽の本質的要素を理解するまで追求することが望ましいのであって、中途半端で伝統の世界へと逃避することはさけなければならない。

 また、西欧人の中に日本の伝統音楽の再発見をとなえる人があり、そのことはそれで結構であるが、それはあくまでヨーロッパ人の領分であることを忘れてはならないと思う。日本の音楽はヨーロッパ人に認められてはじめて価値が生じたのではなく、われわれの祖先が作りあげ伝承してきたものとして価値があるのであり、われわれはまたそれを時代に即したものとして作り直し、次の時代へとうけわたしていく義務を持っていると思うのである。


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