見出し画像

対話と信頼

皆さま、いかがお過ごしでしょうか?
一日のうちの大切な時間を使って、このnoteを読んでくださりありがとうございます(ここで閉じないでください、お願いします!)

仕事でブルガリアに来て早くも2か月が経ちました。毎日色々なことがあり、言語化できずにまとまらず溜まっていくnoteの下書き。

そろそろ本気出す(夏休みの課題に取り組む小学生か)と自分に言い聞かせて、久しぶりに投稿します。

まだこれを書きながらも、頭の中でまとまらない想いが渦巻いていますが。書き出すことで見えてくるものがあるので先に進めますね。

話すこと

対話の前に、まずスタートは自分自身から。

そもそも人間はいつから話し始めたのか。

どうやらネアンデルタール人は、発達した前頭葉を収納する頭蓋骨は持っていなかったらしい。ということで、文節化した言葉を使い始めたのは原生人類(ホモ=サピエンス)から、ということになる。

さすがにホモ=サピエンスまで遡ると、今回の「対話と信頼」の内容にたどり着くまで相当の文字数が必要になるので棄却します。

では、一般的な発話はどうだろう。
調査によると、しゃべり始めるのは生後9ヶ月~1歳6ヶ月ごろ(言語機能通過率)らしい。

まんま・ぶーぶーなど、喃語(なんご)から始まった自己表現。日々周りからの問いかけに反応し、獲得していく真新しい言葉たち。

次第に二語文が話せるようになり(りんご たべる、パン ちょうだい 等)、やがて文章へ。驚くほどのスピードで(記憶にはないけれど)言葉をつかみ取る。

とにかく口から言葉を紡ぐことが楽しい幼少期。

こんなことなら発達心理学の授業をもっとしっかり聞いておけばよかったな。

成長して、すっかり大人になり語彙が増えた。増えたはず、ではなく確実に増えている。

にも関わらず、僕たち幼少期より不器用になってませんか?言いたかったことを端的に表現できていた二語文の頃の方が、素直でいられたのではないか‥‥

語彙が増えたら、それだけ表現できることが増えるはずのに。余計なことが邪魔して頭でっかちになって、うまく言葉にできない。独り言だと結構上手く話せるのに。この矛盾は一体なんだろう。

余計なことの正体

対話って、相手がいて初めて成り立つものだから。絶対に話す過程で誤解や隔たりが生じと思うんです。相手が自分なら伝えるのは簡単だけどね。

やっぱり余計なことの正体、一番は大人になって生まれた謎のプライドだと思うんです。

一言ではまとまらない感情が、そのプライドという言葉に詰まってるハズなんです。

例えば、これを相手に言って〇〇と思われたらどうしよう。そもそも話して理解してもらえるかな。これは言わなくても伝わると思うし話さず終わろう。言わない方が円滑に進むこともあるし。とかね。これを読んでいるあなた、心当たりありますか。僕はあります 笑

対話っていうと、相手ありきな感じがするけど。「悩んでいる自分に向き合って葛藤すること」が対話の第一歩になるのではないか。

それは、対話という名前に包まれた自己開示に他ならないと思います。

信頼

それでは次、信頼について。なんとなく終わりが近づいてきました。

誰もが通る最初の「対話と信頼」は幼少期の「ここだけの話だよ、絶対誰にも言っちゃダメだよ!秘密だよ!うん、分かった!誰にも言わない!約束ね!」←絶対これですね(笑)

秘密を共有することで、関係が深まる(クロージング効果という)訳です。

※子供の頃の2人だけの秘密なんて、大抵守られることはないですが(驚くほど迅速に話は広まる)。

自分しか抱えていない感情を相手に伝えることが、大人になってからの秘密の共有に近いかなと僕は思います。

伝えるのは難しいけれど、それを裏表なく誤魔化さず精一杯の語彙力で伝えることで「私に話してくれたんだ」という信頼に繋がるのではないか。

とか言って、そんな簡単に思っていることを言語化できたら苦労しないんですよね人間。

やっぱり頭でっかちになって、遠回りして他のことばかり考えるから上手に伝えられない。

以下は、僕の好きな曲の一節ですが

弱さ 打ち明けること
それは意味のないことかもね
だけど 君の前で 正直に
いられるという事に 救われた


信頼を得たくて自分のことを相手に話すとき、結局意味がなかったとしても。相手に対して正直でいられることが何よりも救いになる。

対話に見せかけて、実は自分をアファメーションしているだけに過ぎない。

対話することの意味って、言語化して自分自身が前に進む意欲を持つことなのかな、と。

僕には幸い、辛い時に電話で話を聞いてくれる友人がいます。本当に日々感謝。少しでも言語化することで、悩みは確実に前に進んでいるのが分かります。数年語には笑い話になるようなエピソードでも、それが信頼関係に繋がっているはず。

うまく自己開示ができず、他者と対話できずに終わったら。自分を檻に閉じ込めて、みんな私のこと全然分かってくれない!と意固地になってる間に時間だけが過ぎていきますね〜。

「自分の人生を惨めにしていたのは自分自身だった」

それに早く気付けたら、人生イージーモード。

おわりに

今日のテーマ「対話と信頼」という文章を書こうと思ったのは、先日『その年、私たちは』というドラマを観たからです。

観てから1週間が経ちましたが、その間に色々と考えておりました。

チェ・ウシクとキム・ダミ主演の韓国ドラマですが、全話を通しての主体は「対話と心配」だと僕は感じました。

※Netflixのドラマを見て、こんなに長々と文章にまとめる変人はそうそう居ないでしょう。

主人公が「自分の人生を惨めにしていたのは自分自身だった」と気付けたこと(梨泰院クラス同様、キム・ダミの演技がとても好きです)

弱い自分をさらけ出すことが怖くて逃げていては、本当の信頼関係は築けない。そうドラマが教えてくれました。

結局文章がまとまりませんでした、とにかく本音で話せる人を大切にして生きていきます(謎の宣言)

先日の友人との電話で。
「苦悩を芸術に昇華しよう」という言葉をいただきました。今は苦悩と芸術について考えております。次回のnoteは、そのあたりを言語化できればと思います。

深夜4時のブルガリア、小論文をはるかに超える文字数でお届けしました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。感想やご意見はInstagramのDMからお待ちしてます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?