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この風呂に―黒っぽいナメクジの話

私の住んでいる近畿地方は、10年ぶりに5月に梅雨入りしたらしい。

これから運動会をする学校もあるだろうし、傘をよく忘れる/失くす私みたいな人間にとっては、厄介な時期だ。でも、雨が降り続く中、土からこみ上げてくる匂いを空気とともに肺いっぱい吸い込むと、心がしんとする。

梅雨は心地悪い面も心地良い面もあるなと思うのだけれど、うちの家にとっての梅雨あるあるは、ナメクジだ。


昨日、風呂場に入ると、壁にナメクジがいた。
一見、黒くて、縮こまっていて、このナメクジは弱っているのかもしれないと感じた。

メイクを落とし、浴槽につかると、視線は自ずとナメクジに注がれた。
ナメクジは私という人間が入ってきたことに何かしらの刺激を受けたのか、縮こまっていた体を、うぃーんっと伸ばしていた。
黒だと思っていた色は本当はもっと茶色っぽくて、皮膚には潤いがあった。

熱湯をかけると死ぬと言うが、風呂場のナメクジはやはり元気なのだ。
自分の体長分は必ず進み、けっこうな速度で壁の上から下まで移動し始める。
これからどうしていくのかな、と観察していると、しまいには壁と浴槽の隙間に消えて行ってしまった。
ナメクジがどこに行ったのか知る由もないが、人間の風呂場という、ある意味捕らわれた環境であっても自由気ままに好きなように行動できるのは、ちょっと羨ましい。


私はさっき風呂場はナメクジにとって”ある意味捕らわれた環境”と書いたが、「捕らわれた」かどうかは視点の違いだと思い直した。

自分は全体を把握できていると信じて、盲点がいっぱい生まれているのではないか。
ナメクジの視点からは無限に広い空間かもしれないし、私が隙間と捉えたところも無数に広がる道かもしれない。
そう考えると、私が見えている世界は実はとっても狭くて、その視界の外側に、とんでもなく広い世界が広がっているような気がしてきた。

だからやっぱり過信は駄目だ。自分の世界を持っても、自分の世界を信じすぎると、足を取られる。
いつの間にか自分の世界がとんでもない底なし沼になっているかもしれない。
反対に、自分の世界に窮屈さを感じるのなら、いつも自分の世界の外側には、また別の世界があると、視点を変えてみるといいかもしれない。

きっとナメクジは、色を変え、風呂場を越えて、今は違う世界を進んでいるんだろう。

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