うるうびと

「はやとぉー! 今日もプリント頼むわー!」

無遠慮な担任は、その言動が僕をクラスで特別な存在に仕立て上げていることを知らない。

特別、というのは、もちろん、悪い意味だ。


2日に1回くらい、僕はカエデにプリントを届けに家へ行っている。

思春期の中学生がたびたび異性の家を尋ねることがクラスメートにどう受け止められるか、僕は肌で感じている。


15時30分を過ぎると、ちゃんと頭が冴えるようになった。

今日も、ハヤト君が、来る。

学校には行けないけれど、クラスメートや担任が嫌いなワケじゃない。

なんだか、説明ができない気持ち悪さが学校にはある。

どうしようもない、気持ち悪さ。

そこから抜け出して会いに来てくれるハヤトを、今日も待っている。

16時を過ぎることは、記憶の中では、一度もない。


悪夢から目が冷めた。時計を見たら、15時47分。

もう、ハヤトは来ちゃっただろうか。

机の上には置かれていない。

布団を三つ折りにして、ベッドを降りた。

部屋を出て、ドアノブを触る。ない。

お母さんは、寝ている間にハヤトが来ると、わたしを起こさないで、ドアノブにプリントを引っ掛けていく。

近所のスーパーのビニール袋に入れたプリントを、引っ掛けていく。

でも、今日はない。そっか、ないかー…


祝日、でもない。

つまり、ハヤトが来ていない。プリント、今日なかったのかな。

なくても良いのに。ハヤトが来てくれたら、それで良いのに。

ハヤトの背中を脳内補正しながら、窓から外の世界を見た。

夕日というオレンジ色をぶちまけた世界は、今日もちゃんと来ていた。マメなヤツだ。


ハヤトに会えていない、二日目。いや、永遠。

カエデはもう、自分の設定を忘れてしまっていた。

登校拒否。引きこもり。あとは、なんだっけ。

タンスとクローゼットの中から、色々と引っ張り出した。

ハヤトに会いにいく。午後3時45分。授業は終わった。

ピンクが好きな女は嫌いだ。けど、ハヤトがピンクを好きなら、好きだ。好きになってみせる。

ピンクの、とはいえ淡いピンクの、ワンピース。

前髪のシースルーに時間がかかった。もう17時だ。太陽も背中を見せている。

昔、ハヤトがプリントと一緒にくれた、「学校で待ってるよ」と書いてある手紙も持った。


まだ、学校に行けた頃、ハヤトの家に行ったことがあった。

理由は覚えていない。

もしかしたら、ハヤトが学校を休んだ日だっただろうか。そうだったら良いな。


記憶を便りに、家の脇を抜けて、横っちょのドアから入る。

ハヤトの部屋は、こっちからが近い。確か。

ちょっと気持ち悪いな私、と握りしめた紙袋を揺らす。止めようか。


ドン、と何か、重たいものが、それなりの距離から落ちる音がした。

ハヤトの部屋かな。

こないだ、新品の洗剤を落としちゃったときより、音が大きい。

「ふざけるな」

ハヤトではない声。

ハヤトの部屋。


カエデが走り出した。

紙袋が一生懸命についてくる。


半開きになっていたドアの隙間から、ハヤトが見えた。

「はやとっっ」

滑り込んでたどり着いたハヤトは震えていた。

ハヤトの目線を辿って、その人はいた。

見たことのない、大人。絶対に敵だ。

「てめぇ、どけ」

ハヤトが抱きしめてくれた。そして、敵と対峙する役目を引き受けてくれた。


ベッドとハヤトの背中に挟まれた。

ハヤトとの距離に高鳴っている。それどころではないのだけれど。


カエデもハヤトも、息ばかり走る。

全然声が出ない。


ピーンポーン。

間延びした音が響いた。

ハヤトも、カエデも、目の前の大人も、止まった。

ピーンポーン、ピーンポーン。

「はーやーとーーっ」

新しい登場人物の出現だった。

まあ、敵ではなさそうだけど。なんかのんびりしてるもん。


敵はクルッと向きを変えて、ハヤトの部屋から出ていった。

ガチャガチャと音を立ててくれたおかげで、距離が遠のいていったのが良く分かった。


一息つける距離になったことが、カエデにもハヤトにも分かって、お互いの顔を見合った。

「誰…?あれ誰…?」

「担任の、松葉先生」

「じゃなくて」

「あ、強盗?何も盗んではないと思うけど」

ハヤト、落ちついてる。可愛い。ムカつく。


「はーやーとーお」

松葉先生、こんな顔してるんだ。

「これ、今日のプリント。あれ、っと、村山、だよな?なんで?」

「ありがとうございます」

「ハヤトも、今日休んだの?」

「頭痛くて」

「風邪?」

「分かんない。もう痛くないし」

松葉先生が黙って見つめている。

「ほれ、プリント」

二人分のプリント。

ハヤトが、受け取った。

ハヤトから、カエデが、受け取った。

「はい、今日の」

「ありがとう」

松葉先生は、ちょっと目をそらしてくれていた。

良い先生なのかもしれない。

…学校、行ってみようかな。


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