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知識は時に生きづらさを生む

知識はあればあるだけいい。

そんな風に考えるのは、日本の学校教育で知識を詰めるだけ詰められ、それをいつでも引き出せる能力さえあれば、テストで良い点が取れて、良い学校に行けるからではないか。

知識があるということは、良い人生が待っているということ、と、心のどこかか頭のどこかでそう考えてしまっている。

でも、果たして本当にそうなのだろうか。

知識は時として悩みを生む。

誰しもが経験したことのあることだと思う。

例えば、世界中には貧困と戦う人々が何億人といる。

たった100円あれば、今日食べることができる。文字通り命が繋がる。

昨日までそんなこと考えたこともなかった人が、本を読んだりテレビを見て、そんな知識が入ってきた。

するとどうなるか。次の日、何気なく入ったコンビニでジュースを買おうと手を伸ばしたときに、ふと昨日得た知識のことを思い出す。

「世界にはたった100円で命が助かる人がいるんだ」

特に喉がカラカラでどうしようもないわけではないかもしれない。頭が欲しただけで体が欲してるわけではないかもしれない。単純に暇つぶしにジュースでも買おうかと考えただけかもしれない。

そのなんでもない、ちっぽけな、今まで何も考えずに使っていた100円に対して、自分が何か悪いことをしているんじゃないか、って思うようになる。

この100円で救える命があるのに、その命を見捨てて自分の喉を潤すためにジュースを買っていいものか。と。

しかしそう考え始めると、自分が使ってる高価なスマホ。果たしてこれほど高価なスマホを持つ理由はあるのか?型落ちの安いものでも良かったのではないか。趣味のロードバイクにたくさんお金を使ってるけど、自分の享楽のために貧しい人の命を犠牲にしてるのではないか。毎月惰性で支払ってるサブスク。特に利用をするわけでもないのに、毎月数千円単位でいろんなサブスクサービスのお金が引き落とされている。このお金を寄付に回すことはできないのか。

そしてこんな風に考え始めた人は、次にこんな風にも考え出す。

それでは、一体どこまで自分を犠牲にすればいいのか。と。

ジュース一本我慢して寄付することはできる。

しかし、自分だって最新のスマホは持ちたい。

趣味がないと生きがいがない。生きがいである趣味にだけはお金を使いたい。

どこまで辞めて、どこまで寄付して、どこまで命を助ければいいのだろうか。と。

知識は時として枷になる。

知らぬが仏という言葉があるように、少し意味合いは違うかも知れないが、昨日まで知らなかった世界があり、知らなくても平然と生きていたし、地球は回っていた。

それなのに、そのことを知ってしまったことで、新しい悩みが生まれた。

昨日まで別世界で起きていたことが、突然自分の人生に降りかかってきたのだ。

知ってしまったからには見て見ぬ振りはできない。それをしてしまうと罪悪感が生まれる。

かといって、では自分はどこまでやればいいのだろう、何ができるだろう。

そうして自分の人生の道に大きな岩を落としてもがいている人々を何人も見てきた。

自分の人生で一番やらなければならないことは、自分の人生の道を歩ことである。

まずはそこありきだと僕は思う。

自分の人生の道を歩く上で、さらに余裕があれば、隣の道を見てみる。他の場所を覗いてみる。その中で自分が差し伸べられる範囲で手を差し伸べればいいのではないか。と僕はそんな風に考えている。

知識は時として枷となり、大きな岩となり、自分の人生の道に立ちはだかり、生きづらさを生んでしまうことがある。

決して枷にすることなく、大きな岩にすることなく、人生を通せんぼさせてはならない。

と、僕は思う。


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