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戸口に現れたもの

 彼の目の前には、親友エドワード・ピックマン・ダービィだったものの死体がある。そして彼の手には拳銃が握られており、まだ真新しい硝煙の臭いがただよっている。彼は確かにここで六発の銃弾を放ち、それはすべて目の前のものに命中したのだった。
 エドワードを殺したのは自分ではない。ダニエル・アプトンは心の中でそうつぶやいた。この状況を見た者は、誰もが彼を正気ではないと判断するだろう。しかし彼は自分が正気であると確信していた。そして彼は今まさに、親友の仇を討ったのだと信じていた。
 病院の廊下を、何人かの人間がこちらに向かって駆けて来るようだった。彼はただ、その近付いてくる足音を冷静に聞いていた。

 エドワード・ダービィとダニエル・アプトンは共にマサチューセッツ州のアーカムに生まれ、少年時代からの親友であった。ダニエルが快活な青年に成長していく一方で、エドワードは大柄な身体付きにもかかわらず生まれつき病弱で、人付き合いも下手で内に閉じこもりがちであった。そんなエドワードであったが、ダニエルは彼のことを気遣い、大切に思っていた。
 しかしエドワードは一方で、早いうちから優れた文学的才能を見せていた。東西の古文書に親しみ、特に隠秘学や占星術に関する文献に興味を示した。また高校生の時に自費出版した幻想的な詩集『アザトースとその他の恐怖』が評判となり、時の人になったこともあった。さらにボードレール派の詩人であり『モノリスの人々』などの詩集の作者として知られるジャスティン・ジョフリーとも文通を通じて交流するなどした。
 二人は共に地元のミスカトニック大学に入学し、エドワードは文学部の形而上学科、ダニエルは工学部の建築学科に進んだ。ミスカトニック大学は全米でも最古の大学のひとつに数えられ、とりわけ隠秘学の文献のコレクションは世界でも名だたるものである。その中には、世界に数冊しか現存しないといわれている、八世紀頃にアラビア人のアブド・アル・ハズラッドによって記された『ネクロノミコン』のラテン語訳の写本も含まれていた。こうした大学の環境によって、エドワードはまさに水を得た魚のように隠秘学の研究にのめり込んでいった。
 ダニエルは建築学科の大学院を修了して建築家となり、大学のほど近い場所に事務所を構えた。卒業して数年後に結婚し、二人の子供にも恵まれた。一方のエドワードは大学に残って研究を進め、学位を取得して博士となった。ただ生来の人付き合いの下手さが災いしてか、なかなか大学の教職を得ることが出来なかった。それでも彼には亡くなった両親から引き継いだ自宅がアーカムにあり、またミスカトニック大学の形而上学科で非常勤の講師や研究員を続けることが出来たので、本人はそれほど自分の状況に不遇を感じていたわけではなかった。むしろ他大学の教職を得て違う街に移り住むよりも、ミスカトニック大学の貴重なコレクションを自由に閲覧出来る今の環境に満足しているふしもあった。エドワードはずっと未婚のままであった。
 こうしてダニエルとエドワードは別々の道を歩むようになったが、二人とも同じ街に暮らしていたので、その友情は途切れることはなかった。二人が会う時は、決まってダニエルがエドワードの家を訪ね、ドアを「コンコンコン、コンコン」という3・2のリズムでノックするのであった。そして応接間で二人で紅茶を飲みながら、尽きない話を交わすのであった。

 そんな二人であったが、ある日エドワードが、
「実は、付き合っている女性がいるんだ」
と打ち明けた時にはダニエルも驚いた。エドワードは三八歳になるが、これまで浮いた話はひとつもなかったからである。
 エドワードによると、その女性はアセナト・ウエイトといい、年齢は二三歳だという。彼女はミスカトニック大学の形而上学科の特別課程を履修しており、そこでエドワードと知り合うことになったのだという。
「おめでとうエドワード! ついに君にも春が来たな」
 ダニエルは心の底から親友の幸せを祝った。エドワードは気恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべていた。

 ただこのアセナトという女性、周囲ではあまり芳しくない噂が立つ女性であった。彼女の容姿は小柄で黒髪、色白で、眉が太くやや両目が離れた個性的な顔立ちではあるものの、かなりの美人であることは間違いなかった。そしてその眼差しは鋭く、神秘的な雰囲気さえ感じさせるものであった。
 彼女が周囲の者に奇異な印象を与えたのは、その不思議な眼差しであった。彼女に見つめられた者の中には、しばしば蛇に睨まれた蛙のように戦慄を覚えて身動き出来なくなる者が少なからずいた。また彼女に見つめられると、一瞬意識が遠のき、あたかも彼女の意識と置き換わったような感覚を覚える者もいた。いつしか彼女は催眠術を使うのではないかとささやかれるようになった。
 また彼女の出自に関して噂する者もいた。彼女は父親と二人、アーカム郊外の港町であるインスマスの古い屋敷に住んでいた。彼女の父親エフレイム・ウエイトはかなりの高齢で、魔術師だと噂されるような奇妙な人物であった。しかしエフレイムは数年前に世を去り、今はアセナトがひとりで屋敷に住んでいて、大学の特別課程の授業がある時だけ、愛車のパッカードに乗ってアーカムまで通って来ていたのだった。
 アセナトの住むインスマスという場所も、彼女の良からぬ噂の原因のひとつであった。アーカムの市民のほとんどは、郊外にそのような港町があることを知らなかったが、一部の人々からは忌み嫌われている場所であった。なぜならインスマスはかつて海賊行為や密貿易に携わる人々が住み着いた場所であるとともに、その住民にはある種の身体的特徴があったからである。それは俗に「インスマス面」と呼ばれる、平板で目が離れて飛び出た顔立ちのことで、その住民の祖先たちがカリブ海の先住民や東洋人と混血を繰り返す一方、近隣の地域から長らく孤立していたために血が濃くなった結果ではないかといわれていた。
 アセナトはその若さにもかかわらず形而上学や隠秘学に深い造詣を持っており、それはどうやら父親から受け継いだものであったようだった。その知識の深さは大学の本科生はもとより、教授陣もうならせるほどのものであった。エドワードもそんな彼女に惹かれた。彼女の知識には、彼が文献で学ぶことが出来なかったものも多く含まれていたからである。
 彼女は時に、自分が女性であることに不満をもらすこともあった。一九二〇年代のアメリカ合衆国では、現在に比べるとまだまだ女性の権利は制限されており、女性参政権がようやく認められたくらいの時代であった。当然、大学で教職や研究者としての立場を得ることが出来た女性は極めて少なかったので、周囲の者たちは、アセナトは自らのそうした境遇を嘆いているものだと思っていた。

 ダニエルもふとしたきっかけでアセナトの噂を耳にし、親友のことを思って心配した。ダニエルはさりげなくエドワードに彼女の様子を聞いてみたが、彼はそのような噂などまるで気にしていないようだった。そればかりか、今度彼女を紹介したいと言い出した。ダニエルは不安を覚えつつも、アセナトに会ってみることとした。
 その日は珍しくダニエルの方がエドワードの家を訪ねた。エドワードとアセナトが彼を出迎えた。二人は婚約し、すでに一緒に住んでいるようだった。
 ダニエルが見る限り、アセナトの方が積極的な様子だった。終始、彼女の方からエドワードの手を取ったり腕を組んだりして、女性慣れしていないエドワードがどぎまぎするのを、彼女は楽しんでいるようだった。そうした様子を見たダニエルは、アセナトの少し常人とは異なる雰囲気が気になったのは確かであるが、彼女の快活な立ち振る舞いに少し安心した。
 それから一月ほどして、二人は慎ましいながらも小さな結婚式を挙げた。エドワードは両親が他界しており、出席した友人もダニエルなど数人しかいなかった。またアセナトもすでに親はなく、友人もそれほど多い訳ではなかったようなので、出席者はダニエルを含めて十人そこそこといったところだった。それでもダニエルは、親友の遅咲きの春に安心したのであった。

 エドワードにしても、自分がアセナトと付き合い、結婚にまで至るというのは予期しない未来であった。
 最初は大学のセミナーで知り合った。彼女は気の強そうな性格である一方、自分は内にこもるタイプなので、そもそも合わないのではないかと最初は思っていた。
 ところがセミナーを続けるうちに、彼は彼女の深淵な知識の虜になり、ますます深く知りたいという気持ちが高まっていった。
 ある日、エドワードとアセナトは大学のカフェテリアで隠秘学について語り合っているうちに、あたりは暗くなり始めた。あまり遅くなって、アセナトが一人でパッカードを運転して自宅に帰るというのは心配になったので、エドワードは彼女にそろそろ切り上げようと言った。すると彼女は大胆にも、エドワードの家で話の続きをしたいと言い出した。元より女性に免疫のないエドワードはただ困惑するだけだったが、彼女は半ば強引に、エドワードの家まで付いて行って上がり込んだ。
 家政婦が作ったビーフシチューを夕食にとった後、二人は応接間のソファーに座りながら、隠秘学の話を続けていた。エドワードは落ち着かない様子だったが、アセナトはさらに大胆になり、彼の横に座って身体を寄せたり、彼の手に触れたりした。すでに家政婦は仕事を終えて帰宅していた。
「先生……私、先生のことが好き」
「えっ……」
「私達、きっとお似合いの夫婦になれるわ」
「ちょっと待って……あっ!」
 アセナトはエドワードに覆いかぶさり、自分の唇を彼の唇に押し当てた。そして舌を彼の口の中にこじ入れて、舌先同士を絡み合わせた。エドワードは金縛りに遭ったように、身体を自由に動かせなくなっていた。
 その後は終始、アセナトのペースで進んだ。彼女はエドワードのパンツの前を開けると、屹立した男性自身を取り出し、それを口に含んだ。彼はたまらず声を上げた。それを意に介さず、アセナトは首を上下して彼の男性自身をむさぼったので、たまらず彼はアセナトの口の中に射精した。
 アセナトはそのまま彼の男性自身から口を離すことなく、最後の一滴が出るまでくわえ続けた。そして口を離すと、中に溜まった精液を飲み込んだ。
 その後アセナトは、着ていたミニ丈のワンピースを素早く脱ぎ捨て、さらに下着もすべて取って全裸になった。そして再び仰向けになったままのエドワードの上に覆いかぶさると、彼の唇にむしゃぶりついた。さらに手で彼の男性自身を包み込むと、それは再び硬さを取り戻していった。
 アセナトは中腰になり、仰向けになったままのエドワードにまたがると、手で握ったままの彼の男性自身の先端を自分の秘部に当てがった。
「アセナト……恥ずかしいけど、僕は初めてなんだ……」
 エドワードはまるでうわごとのように言うと、アセナトは微笑んで応えた。
「大丈夫。私も初めてだから」
 そう言うと彼女は腰を沈めた。エドワードの男性自身の先端がぬるりとアセナトの中に入った。彼女はいったんそこで一息付いたが、そのまま一気に腰を落とした。彼の男性自身は根本まですっかり彼女の中に入った。
 そのままアセナトは身体を倒し、エドワードの上に覆いかぶさった。そして彼の唇にむしゃぶりつくと、彼の男性自身はアセナトの中できつく締め付けられ、彼はこらえることが出来ずに再び射精した。
 エドワードは茫然とした表情のままだったが、アセナトがゆっくりと起き上がると、彼の男性自身がするりと抜け出た。彼女は自分の秘部からこぼれてくる精液を指ですくい上げると、それを口に含んで舌で舐め取った。そして彼に向かって微笑んで言った。
「先生。あなたはもう、私のもの」

 エドワードとアセナトが結婚してから、エドワードがダニエルの家を訪ねてくる回数は以前より少なくなった。ダニエルは、エドワードが新婚生活を満喫しているものと思い、少しばかり寂しさは感じるものの、微笑ましいことと思っていた。
 しかし数か月が経つうちにダニエルは、親友の様子が少し変わってきていることに気が付いた。最初の頃は、彼はアセナトの隠秘学に対する造詣の深さを賞賛し、素晴らしい伴侶を持つことが出来たとご満悦の様子であった。ところが段々とアセナトのことや隠秘学の話題を話すことが減り、ダニエルが話を向けても、あいまいな態度を取ったりはぐらかしたりするようになった。
 またダニエルは、周囲の人たちからもエドワードの様子がおかしいと聞くようになった。ある人は、エドワードがパッカードをすさまじいスピードで運転しているのを見たと言った。パッカードは妻のアセナトが持ってきたものであり、エドワードは運転をしないはずだったので、ダニエルは、それは本当に彼だったのか、妻が運転していて彼は助手席に乗っていたのではないかと聞き返したが、目撃者はそれは確かにエドワードであり、彼が一人で運転していたと証言した。

 そしてある日、ダニエルは電報を受け取って驚いた。メイン州で錯乱した男性が保護され、ダニエルの名前を呼んでいるのだという。その男性の特徴から、どうやらそれはエドワードに違いないようだった。
 ダニエルはおっとり刀で車を出し、丸一日かけてアーカムから北に三〇〇マイル離れたメイン州のチェスンコックに向かった。そこは湖が点在する森林地帯で、州都のポートランドからも遠く離れた奥地だったので、なぜエドワードが一人でそんな所に行ったのか不思議に思った。しかしチェスンコックの保安官事務所で保護されていた男性は確かにエドワード本人であった。そして彼は支離滅裂なことを口走っていた。

「ああ、ショゴスの穴が、六千の階段を下っていって、最悪の最悪が、自分を連れていかれてたまるかと思って、そこで自分を見つけたんだ……イア、シュブ=ニグラス! 祭壇からその姿がそそり立っていて、五百、穴があいて……被りで顔が見えない何かが、泣いてるみたいな、鳴いてるみたいな、カモグ、カモグ、って……それはあのエフレイムの、その洞穴で使ってた秘密の名前だったんだ、僕はそこにいたんだ、妻は言った、連れていくなんてしないと……図書館に閉じ込められたんだ、そして僕はそこにいて、妻は僕の身体と一緒にどこかへ、最も冒涜的な場所、番人が門を守る、暗黒の領域の入り口、不浄なる穴で、僕はショゴスを見た……あれは形を変えていた、堪えられなかった、堪えたくなかった、もしあそこにまた送られることがあれば、僕は妻を殺す、妻を、奴を、あれを、殺す、殺してやる、僕の、僕の手で……」

 一時間ほどしてようやく落ち着いた彼をダニエルは引き取り、町で宿を取った。翌日、ダニエルはエドワードを車に乗せて、アーカムへの帰路についた。
 車中でもエドワードは常に落ち着かない様子で、意味不明なことをつぶやき続けた。どうやら彼は妻に突拍子もない幻想を抱いているようであった。エドワードの主張をよく聞くと、アセナトが催眠術を使ってエドワードの肉体を乗っ取ろうとしているらしい。ダニエルがあきれていたが、車がマサチューセッツ州に入った頃になると、エドワードは怯え始めて、どうかアセナトのいる自宅には連れて帰らずに、エドワードの家にかくまって欲しいと懇願し始めた。
 ダニエルが困惑していると、エドワードは急に冷静になり、どうか先ほどの妄言は忘れてくれと言い出した。そして妻との間には何の問題もなく、隠秘学の研究にのめり込みすぎて自分はどうかしていたのだと言った。
 エドワードの自宅に着くと、彼は落ち着いた様子で車を降り、ダニエルに丁寧に例を述べた後、自分で玄関のドアを開けて中に入った。ダニエルは少し不安な気持ちが残ったものの、まずは彼が正気に戻ったことに安堵し、自宅に戻った。

 その事件があって二月ほど、エドワードの様子は落ち着きを見せていたようだ。周囲の人たちによると、彼は以前より元気そうだということであったが、ダニエルの家を訪れたのは一度だけであった。その時はただ借りていた本を返しに来ただけであり、家に上がることもなく帰っていった。しかもいつものように決まった3・2のリズムでドアをノックしなかったので、ダニエルも最初はそれがエドワードだと気付かなかったくらいであった。
 またアセナトが人前に出てくる機会が少なくなった。近所の人たちの中には、時々彼の家からアセナトの泣き声を聞いたという者がいて、ダニエルもその噂を聞いて心配した。メイン州からの帰りの車の中で、エドワードが妻に対する妄想を語っていたからである。しかしアセナトの声を聞いた近所のある人が、玄関のドアを叩いたところ、ちょっと間を置いてアセナト本人が現れた。彼女は元気そうな様子で応対し、泣き声が聞こえたという隣人に対して、それはきっと気のせいだと答えたので、隣人も安心し、その後はそうした噂も聞かれなくなった。

 そしてある日、ひさしぶりにエドワードがダニエルを訪ねてやって来た。いつものように3・2のリズムのノックが聞こえたのでダニエルがドアを開けると、そこには錯乱した様子のエドワードがいた。
 なんとエドワードは妻のアセナトを追い出したのだという。そして以前と同じように妻に対する妄想を語り出した。それは妻が催眠術を使って自分の身体を乗っ取るというものであったが、最近では妻に乗っ取られている時間も増え、その間は自分の意識は妻の身体の中に閉じ込められるのだという。さらに彼は、アセナトは実はアセナトではなく、その意識は父親のエフレイムのものであるとまで言い出した。そして自分の身体が完全に乗っ取られる前に、ついに妻を家から追い出したのだという。
 ダニエルは彼に早まったことをするなとなだめ、妻と仲直りするように諭したが、彼は聞く耳を持たなかった。ダニエルから見ると彼はまったく正気ではなく、またあの気の強いアセナトが大人しく家を出て行くことに同意するとは思えなかった。しかしダニエルが彼の家を訪ねても確かにアセナトの姿はなかったので、もはや親友夫婦の仲を自分が取り繕うことは難しいと悟った。
 
 その後もエドワードは家に閉じこもりがちで、たまにダニエルと会った時も、常に何かにおびえた様子であった。
 それから三月ほどたったある日、ダニエルを家を訪ねていたエドワードの様子が突然変わり、また支離滅裂なことを叫び始めた。

「脳が! 頭が、向こうから引っ張られて……何かが入って、這入って……あの女だ、いや、エフレイムが……カモグ、カモグ! ショゴスの棲まう穴蔵よ……イア、シュブ=ニグラス! 千の仔を孕む山羊が……炎が、身体も命も超越して、星に燃えて……だ、誰か……」

 ダニエルは何とか彼を落ち着かせて、ひとまずその日は自宅の一室に彼を泊まらせた。
 心配したダニエルは、翌朝医者を呼んで彼を診察させた。医者は緊急に入院が必要だと言い、エドワードはそのままアーカム・サナトリウムに入院させられた。ダニエルは彼の後見人となり、週に二回、彼のもとに通ったが、彼は叫び声を上げたり震えたりするばかりで、そんな親友の様子にダニエルは涙するしかなかった。
 ところが彼が入院して二週間ほどたった頃、病院からダニエルに電話があった。エドワードが正気を取り戻し、すっかり落ち着いた様子になったという。ダニエルは喜び、翌日の午前に彼の様子を見に行くと答えて受話器を置いた。
 その日の夜、ダニエルのもとに一本の電話があった。彼が受話器を取ると、その向こうから何かゴボゴボという音が聞こえるだけであった。彼が呼びかけても何も答えは返ってこず、やがて電話は切れてしまったので、いたずら電話か、機会の調子が悪かったのだろうと思って受話器を置いた。
 それから二時間ほどたち、ダニエルはそろそろ床に就こうと思った時に、不意に玄関のドアをノックする音が聞こえた。それもあの特徴的な3・2のリズムである。彼はまさかとは思いつつもドアを開けた。
 そこに立っていたのは良く見知ったエドワードの姿ではなく、黒いコートを着て帽子を深くかぶった、背の低い人物であった。それだけでも十分怪しかったが、さらに異様だったのは、その人物が放つ臭いであった。それは動物の腐臭のような、えも言われぬものであったので、思わず彼は後ずさりした。
 その人物は手紙のようなものを彼に手渡そうとしたが、彼は引き下がったのでそれは地面に落ちてしまった。するとその人物は地面に崩折れ、そのまま動かなくなった。
 驚愕してしばらく立ち尽くしていたダニエルであったが、倒れた人物がもはや危害を加えてこない様子だったので、足元に落ちていた手紙のようなものを拾い上げた。それは封筒で、その表には「親愛なるダニエルへ」と書かれていた。それは弱々しい筆遣いであったが、確かにエドワードの筆跡であった。
 驚いたダニエルは、倒れている人物のもとに駆け寄った。身体を起こそうとすると、被っていた帽子が取れ、そこから腐乱した人間の頭部が現れた。彼が驚いて仰け反ると、その手の指には抜け落ちた黒く長い髪が何本も絡み付いていた。
 
 夜も遅い時間であったが、警官が駆け付け、また近所の人たちも出て来たので辺りは騒然となった。そして皆、その死体が放つ悪臭によって気分が悪くなった。警官は現場検証を行い、ダニエルもその場で取り調べを受けたが、皆この状況の異常さに首をひねるばかりであった。そして警官は死体を運び出し、またダニエルにも怪しいところはなかったので、取り調べの続きは翌朝ということになり、ようやく彼が解放されたのは未明の三時であった。
 さすがにそんなことがあったのでダニエルも寝付くことは出来なかった。そしてポケットに忍ばせていた封筒を取り出し、中の便箋を開いた。なぜなのか自分にも分からなかったが、警官にはこの手紙のことは言わずに黙っていた。
 便箋に書かれた文字は弱々しく、ところどころかすれていたが、まぎれもなくエドワードの筆跡であった。そしてそこには恐るべきことが書かれていた。

親愛なるダニエルへ
 今すぐサナトリウムに行って、あれを殺してくれ。あれはもうエドワード・ダービィではない。あれはアセナトなのだ。
 僕は三か月前、アセナトを殺した。いなくなったのではなくて、僕がこの手で、なたを振り下ろしてあれの頭蓋骨を砕いたのだ。そしてその死体を地下室の床下に埋めた。あれの息の根を止めたと思った僕が甘かった。
 あれの精神は、肉体が死んでもなお生き延びて、僕の身体を乗っ取ろうと何度も試みた。そしてついにあれは僕の身体を乗っ取り、反対に僕の精神は埋められたアセナトの身体に押し込められたのだ。
 いや、そもそもあれはアセナトではない。その父親であるエフレイムなのだ。エフレイムはかつて、自分の寿命が尽きようとしていたのに気付き、一人娘のアセナトの身体を乗っ取ったのだ。
 エフレイムは危険な男だ。あれは長年にわたって研究してきた魔法をついに完成させようとしている。その魔法は、かつて地球を支配していた忌まわしい神格を復活させるためのものなのだ。もしその魔法が完成したら、この世界は混沌に飲み込まれるだろう。
 あれが僕の身体を乗っ取ろうとしたのは、アセナトの身体では脆弱過ぎてその魔法を行使するのに耐えられなかったからだ。だから丈夫な男性の身体を持ち、隠秘学の素養がある僕が身代わりに選ばれたのだ。
 今、君がこの手紙を読んでいるということは、アセナトの身体に押し込められた僕が、何とか君に会いに行くことが出来たということだろう。しかしこのアセナトの身体はすでにボロボロで、そう長くは持たないだろう。君には済まないと思っている。しかしどうか、あれを君の手で殺してくれ。あれの野望は決して実現させてはならない。
 頼む、殺してくれ。
                    親愛なるエドワードより。

【解説】

・ 本作はH・P・ラブクラフトの作品「戸口に現れたもの」(1937年)を下敷きにしたものである。エドワードとアセナトの初夜の場面を加えたこと以外は、ほぼ原作通りのプロットであるが、物語の展開をシンプルにするために多少、改変している。

・ 原作者のラブクラフトはどうやら極度の女性嫌いだったらしく、女性が登場する作品は極めて少ない。本作はその例外のひとつである。しかしそのアセナトも精神は父親のエフレイムのものであり、いわばエドワードは男性の精神を持った相手と結婚したことになる。今風に言うと、ラブクラフトはなかなか「こじらせた」性癖を持った人物だったということになるだろう。

・ 本作はいわゆるクトゥルフ神話の中に位置付けられるものとなるが、物語に旧支配者やその眷属が登場する訳ではない。ただ錯乱したエドワードの言葉の中に「イア! シュブ=ニグラス」があるのはクトゥルフ神話のお約束であるし、エフレイムはショゴスを飼い慣らしていたようであることが伺える。

・ 「アーカム」「ミスカトニック大学」もクトゥルフ神話お約束の地名である。アーカムはマサチューセッツ州のセイラム、ミスカトニック大学はロードアイランド州のブラウン大学をモデルにしていると言われている。また「インスマス(インスマウス)」も登場しているが、これはラブクラフトの代表作「インスマスの影」の舞台である(ただしこの官能怪談シリーズでは日本の奄美群島に舞台を置き換えている)。

・ 詩人ジャスティン・ジョフリーは、クトゥルフ神話にしばしば登場する人物。ニューヨークの天才詩人であったが、悪夢に苛まれ続け、二一歳の時に精神病院で夭逝したとされる。オーガスト・ダーレスの作品『黒の詩人』(1971年)の主人公にもなっている。

・ パッカードは1920年代のアメリカにおける代表的な高級車。V型12気筒エンジンを搭載したかなりイカツイ車なので、それを駆るアセナトはなかなかの女性である。

・ 『ネクロノミコン』はクトゥルフ神話を代表する魔術書。アラビア人のアブド・アル・ハズラッド(アブドゥル・アルハザード)によって七三〇年頃にダマスカスで執筆されたと伝えられ、原題は『キタブ・アル=アジフ』であったが、九五〇年にギリシア語に翻訳された時に『ネクロノミコン』になったとされる。ミスカトニック大学の他、大英博物館やパリ国立図書館、ブエノスアイレス大学などに所蔵が確認されている。

・ メイン州のチェスンコックは実在する地名である。ポートランドからおよそ二四〇マイル北の森林地帯の、ダムを堰き止めて出来たチェスンコック湖のほとりにチェスンコック村がある。

・ ショゴスはエフレイムが密かに飼育していた生物。元来は、先カンブリア紀に到来して地球を支配していた種族「古きものども」が奴隷として作り出した生物で、アメーバのような不定形の姿をしている。「テケリ・リ、テケリ・リ」という特徴的な鳴き声を出すが、これは主人たちの言語を真似たもののようである。ショゴスには知能もあり、ついには反乱を起こして主人たちを滅ぼしたといわれる。一説によると、地球の原生生物のほとんどはショゴスから分かれて進化したものであるという。

・ 最後にアセナトという人物について。ラブクラフト作品では珍しいヒロイン(?)であり、原作ではあまり美しい描かれ方をされていないが、筆者はなかなか魅力的な人物と思っている。そこで本作では、中身は男性(エフレイム)なのだが身体は女性なので、それに幾分影響を受けているという設定にした。作中でアセナトはエドワードの身体を乗っ取ろうと画策するが、あるいは彼女は最初から彼と入れ替わろうと考えていた訳ではなく、彼女は彼女なりに彼のことを愛していて、エドワードがアセナトを殺害するという不測の事態が生じたので、やむなく入れ替わったのではないかという可能性も筆者は想定している。


 


 
 


 
 

 


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