「小説作法」

何かの本で著者を知って、地元図書館に行ったら、この本があった。わかりやすい文章なのだが、著者は何が言いたいのだろうと解読できないところも多々あった。

書き方に決まりなんかない、論じ方に型はいらない、論じる時に論者は一般の読者以上にわかる必要はない。だから、わかったように書かなくていい、はわかるけど、著者が面白いと思って書いたそこがつまらない、みんなが面白いと言って世に流通しているそこがつまらない、小説は小説家にしかわからない、評論家も編集者も小説をわかってない、小説家は孤独なんだ、までいくと、一体どうすりゃイイの?と袋小路にでも迷ってしまった気分になる。

「表現とは人物の表現である。人間の表現には、必ず作者の「精神構造」が貫かれていて、それによって人物をめぐって展開する。しかし、作家は「精神構造」をたえず忘れ、現在に賭けなければならない」

「私達の未来は輝かしいものとは誰も思ってない。輝かしいとすれば、人類の幸福というようなものでなくて、隣の家よりも自分のところが広かったり、よそより出来の良い子供がいたり、そうした小さい相対的な幸福のことである。その幸福のために悪戦苦闘しなければならない。それでいて、人間同志だけの間で、愛情乞食の毎日を送ってる」

「世の中がどういうふうに変わっても、どういう状況が来ても、その中で自分が流されそうになるものの実態を、今度はそれを巻き返して自分の方が吸収していく。そうすれば何とか書いていける」

「世界は2人以上から成り立っている。だから自分と違う考え方の人はたくさんいる。自分が歩いて行く時は、世界は自分1人だと思って歩いて行く。でも、他人にぶつかる。そのぶつかる世界を書くだけでも世界はできる」

その通りだと思います。

著者のカフカ論は面白かった。
人間は知らないうちに、いろんな世界に取り込まれて、それを基盤として生きざるを得ないけど、カフカはそのことを自分の身近な日常や他人との関係の中で、ネガティブな愚痴を通して、全てを徹底的に否定した。自分は真面目なサラリーマンをやりながら。

つまり、自ら望まずに、人間の基盤となるものを全否定してしまった世界に身を置くことになってしまったのだ。

そうなると訳のわからない不安と絶望のうちに消える、死ぬしかないだろう。

カフカの世界は、とんがった感性を持つ者には魅力的に写るだろう。しかし、誰も勇気がなくて、カフカの世界に入り込むことはできないし、真似もできない。

だから、カフカの作品には、「WHY」が見当たらない。なぜ毒虫になった?なぜ入れない?なぜ裁判にかけられる?なぜ罪がある?なぜ殺される?…。カフカの小説は完結することがないのだ。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。