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ブダペスト②[2024.2.23]

独房のようなホテルに閉じ込められてから、一晩が過ぎた。あともう1日、ここで寝泊まりすればこのホテルから解放される。そう自分に言い聞かして、身支度をした。

何も最悪なホテルに泊まっているわけではない。共同のシャワールームは温水がちゃんと出るし、同じ階に泊まっている人はすれ違えば挨拶をしてくれる。ただ、自分の部屋がサラミのような妙な匂いがするのと、あまりに簡素な作りであることに嫌気が差しているだけだ。  

今日は丸一日自由に使えるので、ブダペストをのんびり見て回ることにした。まずはホテルの近くからバスに乗り、ドナウ川にかかる橋を渡ってブダ城の麓に向かった。昨日の14時過ぎに24時間のフリーパスを買ったので、できるだけ使っておきたい。

バスから降りると、少し雨が降っている。傘をさす程ではないので、無視してブダ城に続く階段を登った。空はどんよりと曇り、空気は少し冷え込んでいるが、深く息を吸い込むと気持ち良い。

階段を登ると、ブダ側の景色を一望することができる。向こうの方は小高くなっていて、まるで深い緑色の茂み中から家々が顔を出しているように見える。

ブダ城はモンゴル人の侵入やオスマン帝国による攻撃、ハプスブルク家による支配などのために、何度も修復工事がされてきた。頂上は楕円の形になっていて、今は博物館や美術館も入っている。

博物館は今自分がいるところからぐるっと回らなければならない。ブダの景色を見ながら、バンガリーの歴史に想いを馳せて足を運んだ。ハンガリーは東西の大国に翻弄された歴史を持つ国の1つだ。

遊牧民族であったマジャール人は、9世紀後半にドナウ川中流域まで進出した。955年のレヒフェルトの戦いでオットー1世に敗れると、彼らは現在のハンガリーの地であるパンノニアに定住する。10世紀の前後のイシュトヴァーン1世の時代にキリスト教を受容。

13世紀にはモンゴルの侵入。1241年にはバトゥの東欧遠征があり、ワールシュタットの戦いではポーランドとドイツの連合軍を破ってブダペストに向かうというところまで来ていた。だがバトゥは翌年に軍を引き揚げたため、ハンガリーはモンゴルによる占領を免れた。

14世紀にはオスマンの侵入。1389年のコソヴォの戦いでオスマン帝国がセルビアを破ると、ハンガリー王ジギスムントは1396年にニコポリスの戦いで大敗。一方でオスマン帝国は東で対応してきたティムールに対応せねばならず、1402年のアンカラの戦いで敗れたためにハンガリーはまたもや占領を逃れた。

15世紀半ばにマーチャーシュ1世が出てハンガリーの全盛期をもたらすも、15世紀末に急死。ハンガリーはポーランドのヤゲウォ朝の支配を受けることになる(ヤゲウォ朝はボヘミアも支配)。

1526年にモハーチの戦いでオスマン帝国のスレイマン1世とヤゲウォ朝のラヨシュ2世が争うも、ラヨシュが戦死。ラヨシュには子がいなかったため、ハンガリー(とチェコ)はオーストリア・ハプスブルク家の支配下に入ることになった。ところがこれに反対する勢力がオスマン帝国に再度の出兵を要請したことから1529年には第一次ウィーン包囲が起こり、ハンガリーは中部と南部をオスマン、北部と北西部をハプスブルク家によって分割されることになった。残るトランシルヴァニアは自治を認められるものの、オスマン帝国の宗主権下であった。

その100年以上あと、1683年の第二次ウィーン包囲ではハプスブルク家がオスマン帝国に勝利し、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーはトランシルヴァニアを含む大半の領土を回復した。

1848年の諸国民の春の時代には一度独立に成功するも、再度オーストリアの支配下に入る。1866年、普墺戦争に敗れたオーストリアはハンガリーと妥協。ハンガリーの形式的な独立を認めたオーストリア=ハンガリー二重帝国(ハンガリー王位はオーストリア皇帝)が成立した。

第一次世界大戦でオーストリアは敗れ、ハンガリーはオーストリアから独立する。サン・ジェルマン条約でハンガリーの独立が承認された。

このように歴史を振り返ると、ヨーロッパの小国はいつも西の神聖ローマ帝国と東のモンゴル帝国なりオスマン帝国なりに挟まれて翻弄され、民族としての独立を阻まれてきた。だが、独立を叫ぶ国からこそ優れた芸術家が生まれてきたのもまた事実である。実際、ハンガリーといえばリストという優れた音楽家を輩出している。

のんびり歩いていると、グヤーシュを出している店を発見。今は11時前で昼食には少し早いが、食べられるときに食べておこうと思ってドアを開けた。

中に入るとウェイターが姿勢正しく待っている。一人だと言うと、席まで案内された。価格を見た感じだと高級店ではないと思うが、自然と姿勢が伸びる。グヤーシュをお願いした。

真っ赤なスープだ。パンも付いている。まずはスプーンでスープをすくい、口の中に入れてみた。少し辛いが、それが牛肉やじゃがいも、玉ねぎとよく合っていておいしい。パンをちぎってグヤーシュに漬けて食べた。最後はスープだけになるかと思ったが、パンと一緒に食べていると、パンがなくなるとともにスープもなくなった。

ハンガリーの料理を食べられたので、今日の目標はクリアしたと言っても過言ではない。足取り軽く、店を出た。

博物館が見えてきた。カーテンで閉ざされた出口と思しきところから人が出てきている。ここから入れるのだろうか。中に入るまで自分はここが博物館だと信じて疑っていなかった。

料金を払い、ダウンジャケットを預けて階段を登った。踊り場には大きな絵が飾ってある。また階段を登って1階に出た。たくさんの絵が並んでいる。どうやら、博物館ではなくて美術館に入ったみたいだ。

少しがっかりしたが、美術館はかなり広そうだし、その分かなりの絵が飾ってあるように思う。1階は19世紀の写実主義・自然主義の時代のコーナーになっている。当時、ハンガリーで自前の芸術家を育てることは難しく、芸術家を志す多くの者はドイツを始めとするハンガリー以外の国で学ばなければならなかった(と書いてあったように記憶している)。したがって、ハンガリーの美術館をつくるというのはとても大変なことだったようだ。

すべての国、すべての民族が自前の歴史や文化を持てるわけではない。大国に蹂躙されてきた国の歴史や文化は、大国によって与えられた歴史や文化なのかもしれない。だから、今度こそ自分たちの歴史を刻むのだと、自分たちの文化を創るのだと、人々は独立を求めて叫ぶのかもしれない。

2階や3階にも展示があったが、1階でかなりの時間を使ってしまったので、あとはさらっと見て美術館を出た。

14時半だ。城の階段を降りてドナウ川沿いに出た。すでに24時間のフリーパスは切れている。ここからは歩いて移動することにした。

グヤーシュだけではエネルギーが足りない。ドナウ川にかかる橋を渡った近くのスーパーでパンを買った。ヨーロッパはパンが安いし、それでいておいしい。

ここからそう遠くないところにリスト音楽院があるというので、行ってみることにした。中に入れるかどうかは分からないが、外見だけでも見たかったので。

泊まっているホテルからドナウ川へ続く大通りよりも西にある大通りを進んだ。途中でお土産屋さんの中に入ったり、移動式の本屋が気になって眺めたりした。

Googleマップにしたがって大通りを外れ、真っすぐ進んだり、曲がったりしていると、知らないうちにリスト音楽院の前まで来ていた。

さすがに名門校だけあって、立派な造りをしている。硬質な建物が誰でも入れるわけではないと威圧しているようだ。正面中央部の銅像はリストだろう。

ドアを引いてみた。中にはもう一つドアが付いている。左手には内部公開の案内がある。一日に2回やっているようだ。残念ながら今日の時間はもう終わっている。またハンガリーに来ることがあったら、次は予め時間を調べて来てみよう。

夕方になった。今日は朝から随分歩いて疲れてしまった。このままホテルに戻ろうと思い、もう一つ東の大通りまで足を進めた。

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