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ローマ③[2024.2.15]

指定された時間になったので、コロッセオの内部に通された。コロッセオは75年にウェスパシアヌスが造営を開始、80年に完成した。コロッセオ造営の背景にあったのは、厳しい緊縮財政に対する市民の不満だった。

60年代はローマにとって苦難の10年だった。64年にはローマの大火で広い範囲が灰燼と化したため、当時の皇帝ネロは新都市計画のために多額の出費をしなければならなかった(もっとも、ネロは私的な出費も多かった)。66年にはパレスティナで反乱が起こった。ネロは有能な将軍ウェスパシアヌスを総司令官に任じ、反乱を鎮圧させた。その後、ネロの自殺もあってウェスパシアヌスは皇帝として帰還した。

ネロによる積極財政と彼の浪費癖のため、ネロ亡き後の国庫はすっかり空っぽになっていた。ウェスパシアヌスは緊縮財政を行い、市民の不満を和らげるために見世物としてコロッセオを造ったとされている。このあたりのことは「皇帝たちの都ローマ」という本が詳しい。

思うに、ローマ帝国は財政に翻弄された。初代皇帝のアウグストゥスは首都を整備するため、莫大な歳出を行った。したがって2代皇帝ティベリウスは歳出を減らし、歳入を増やすことに取り組んだ。歳入増加については、属州からの税収増と財産の没収で対応した。しかしながら、3代のカリグラはパンと見世物にカネをつぎ込むあまり、再び国庫を空にする。4代クラウディウスは国庫安定に腐心。そして5代がネロである。賢帝が財政を安定させても、次の皇帝が浪費してしまうということを繰り返している。カネというのはありすぎても良くないのかもしれない。

さて、見世物というのは野獣狩りや剣闘士の戦いのことである。そのために馬や豚、ニワトリといった様々な動物が連れこられた模様。コロッセオへの入場は無料で、観客は肉や魚、貝やフルーツを食べながら見世物を楽しんでいた。席は厳格に決まっており、身分の高い人ほど近くで観ることができた。

元老院の議員は自分専用の席を持つことができたらしい。その人が死ぬと、次の人に席の名前が書き換えられた。

中世には住居としても使われていたことがわかっており、陶磁器やポットが見つかっている。モノの売買も行われてきたようで、多くの通貨や肉の骨が見つかったことから肉屋の存在が示唆されている。

トラヤヌスを発見。ローマ帝国の最大版図を実現した皇帝である。五賢帝の一人に数えられている。

コロッセオからは、コンスタンティヌスの凱旋門を見下ろせる。180年にマルクス・アウレリウスが死亡すると、人類史上最も幸福な時代とも言われる五賢帝時代(パクス・ロマーナ)も終わりを告げた。ローマは衰退への道を加速させるが、とりわけ西ローマは衰退が激しく、ディオクレティアヌスは286年に帝国を東西に分けるという決断をした。東西にそれぞれ正帝と副帝の四人の皇帝を置くテトラルキアの始まりである。コンスタンティヌスは西の正帝を巡って3人の候補者と争った。この凱旋門は、コンスタンティヌスが争いに勝利してローマに凱旋したときに建てられた。

コロッセオの内部。地下も見透せるようになっている。

コロッセオを出て、フォロ・ロマーノに向かった。フォロ・ロマーノは「ローマ市民の広場」という意味である。カエサルはローマを立派な街にしようと思い、アウグストゥスが引き継いで今の姿の原型ができた。

紀元1世紀でこれが作れてしまうのだから、驚かざるを得ない。ただし、"紀元前1世紀で"というのは古代に比べて現代の方が優れているという思い込みからくるものであり、必ずしもそうではないだろう。人間の文明は直線的に発展するものではない。いずれにせよ、古代ローマ・ギリシア文明には頭が上がらない。フォロ・ロマーノの中で生活を営む2000年前のローマ人に思いを馳せた。

今日は日差しが強い。半袖で十分だ。いろいろ見て回っていたら、14時を過ぎてしまった。空腹で倒れそうだ。

建物の中に自販機はないかと、フォロ・ロマーノ内の考古学博物館に入った。トイレの近くで、コーヒーの香りがしている。もしや、と思って入って案内に従って進むと、トイレの前に自販機を発見。

ツナサンド。お腹が空き過ぎているときに何かを口にすると、安堵感で倒れてしまうのではないかとかえって心配になる。

お腹を満たしたところでフォロ・ロマーノを出た。街をぶらついてみよう。

カエサルを発見。

どんどん歩いていくと、トレビの泉まで来てしまった。ものすごい人だかりができている。ガンジス川の沐浴のようになっている(ただし、こちらでは人は水に浸かっていない笑)。

これでだいたいローマ中心部の観光地と観光地の距離感をつかめた。ローマ中心部はそんなに広くなさそうだ。おそらく歩いて回ってもそんなに時間はかからない。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は初代イタリア国王である。サルデーニャの王であった彼はカヴールを宰相に抜擢。カヴールは1859年、伊墺戦争を開始。だが、サルデーニャはロンバルディアを得るにとどまった。60年、プロンビエール密約に基づいてサルデーニャはサヴォイアとニースをフランスに割譲し、その変わりに中部イタリアの併合を認めさせた。イタリアのオーストリアからの独立を目指す青年イタリアで活動し、赤シャツ隊を組織したガリバルディは同じく60年にシチリアとナポリを占領し、これをヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上。南ティロルやトリエステといった、イタリア人の多い地域は未回収のイタリアとして将来的な課題となったが、61年にイタリアは統一を果たした。

歴史を振り返ったところで、そろそろホテルに向かおう。

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