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ウィーン②[2024.2.21]

前日にシェーンブルン宮殿のチケットを買っておこうと思ったのだが、カード決済がうまくできずにいた。当日の朝早くに行けばそれほど並ばずに済むということなので、朝の7時頃にホテルを出た。ホテルから宮殿までは1時間半弱。朝から良い散歩になった。8時半開館で、8時20分頃に到着した。幸い、まだ5組ほどしか並んでおらず、すぐにチケットを購入することができた。

シェーンブルン宮殿はマリア・テレジア以降のハプスブルク家が夏の離宮として用いたとして知られている。音声ガイドを聞きながら、皇帝や皇妃が送った生活について知ることができる。残念ながら、内部の写真撮影は禁止されている。

ハプスブルク家について知るためには、1250年から73年までの大空位時代に遡る必要がある。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(バルバロッサ)の死後、ホーエンシュタウフェン朝は断絶。皇帝が即位すれば敵対勢力が別の皇帝を立てるという大空位時代が始まる。

1273年の選挙では、2人の候補者が名乗りを上げた。フランスのフィリップ3世とチェコのオタカル2世である。だが、2人とも候補者としては問題があった。フィリップはシチリア王の後援を受けており、オタカルは疑義ある手法でオーストリアを領有していた。諸侯にとって絶対君主は必要でなく、適度に諸侯の連邦をまとめてくれる皇帝が望ましい。

そこで諸侯たちの間に浮上したのが、ハプスブルク家のルドルフ1世だった。要は、ルドルフは弱小な王を望む諸侯に担ぎ出されたのである。皇帝に選出されたルドルフはマルヒフェルトの戦いでオタカルを破り、オーストリアを領有する。

そのおよそ200年後の15世紀後半、ルドルフの血筋を引くマクシミリアン1世は当時フランスから離脱する動きを強めていたブルゴーニュのアンと政略結婚する。ハプスブルク家とフランスの長きに渡る対立の端緒はここにある。

1494年には北イタリアの経済力をものにしようとするフランスと神聖ローマ帝国の間にイタリア戦争が勃発する。この戦争で、アンジュー家の支配下にあったナポリの支配権をめぐり、スペインがフランスと対立したことから、ハプスブルク家はスペインに近づいた。

マクシミリアンとブルゴーニュ・ド・アンの間に生まれたフィリップ美公とマルグリートはそれぞれスペインの王女フアナと王子フアンと結婚。フアンは早世し、男子も相次いで死産したことからハプスブルク家がスペインを支配することになった。フィリップとフアナの間の子どもこそ、のちのスペイン王となるカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)である。

また、マクシミリアンは自分の孫たちをヤゲウォ朝のチェコ・ハンガリー王ウラースロー2世の子たちと結婚させる。1526年、モハーチの戦いでウラースロー2世の子ラヨシュ2世が戦死したことにより、チェコ・ハンガリーの王位はフェルディナントが継いだ。ただ、続く29年の第一次ウィーン包囲でハンガリーは3分割される。中・南部がオスマン直轄領、北・北西部がハプスブルク家領、東部のトランシルヴァニアはオスマンの宗主権下で自治である。

1556年にカールは退位すると、スペインは子のフェリペに、オーストリア諸邦は弟のフェルディナントに譲る。こうしてハプスブルク家はスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に別れた(これは21年のヴォルムスの会議にて決められていた模様)。

それから100年以上あと、1683年にオスマン帝国は第二次ウィーン包囲を行う。膠着状態から一転、オスマン軍を破った神聖ローマ帝国は99年のカルロヴィッツ条約でトランシルヴァニアを含むハンガリーの大半を獲得した。

1700年にカルロス2世が没すると、フランスのルイ14世の孫フィリップがスペインの王位を継ぐ。ところがフィリップはフランスの王位継承権を捨てていなかったため、イギリスとオランダが反対。スペイン継承戦争が始まる。1713年のユトレヒト条約でフランスとスペインの合同は禁じられた。フィリップはフェリペ5世としてスペイン・ブルボン朝を創始し、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。

1740年にカール6世が没すると、国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクチオン)に基づき、マリア・テレジアが女帝として即位した。プロイセンのフリードリヒ2世は資源の豊かなシュレジェンに侵入してオーストリア継承戦争が始まる。48年にアーヘンの和約が結ばれ、ハプスブルク家はシュレジェンを失ったまま講話を結んだ。56年の七年戦争でも、ハプスブルク家はシュレジェンを取り戻すことができなかった。

1804年、ナポレオンが皇帝となる。ハプスブルク家は独自に帝位を創出することを試み、フランツ2世がオーストリア皇帝として即位した。とはいえ戦況は苦しく、アウステルリッツの三帝会戦では大敗を喫し、ドイツ中・南部はライン同盟に加わって神聖ローマ帝国から脱退したことで、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。

66年の普墺戦争でプロイセンに敗れたオーストリアは、ハンガリーに近づく。67年、オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立(ハンガリーは自治を認められる)。

1918年にオーストリア=ハンガリー皇帝のカール1世が退位し、オーストリア・ハプスブルク家の支配は終了した(以上、『神聖ローマ帝国』および『ハプスブルク帝国』、いずれも講談社現代新書、を参照)。

シェーンブルン宮殿を出て、再び1時間半ほどかけてホテルまで歩いて戻った。

ホテルに帰って(スーパーで買ったもので昼食を簡単にすませ、)しばらく昼寝をした。2日で1都市を回るときは、2日目は少し昼寝をするぐらいが好ましい。あんまり沢山見ても疲れてしまうので。

夕方、再び中心部まで出かけた。音楽の家という施設があると知ったので、行ってみた。

ウィーン管弦楽団の歴史や、オーストリア(ドイツ)を代表するベートーヴェン、モーツァルト、ハイドン、ブラームスといった音楽家の生涯・作品を紹介している。管弦楽団の演奏をビデオで視聴する部屋もあり、素人でも十分楽しめる。

日が沈む頃に音楽の家を出た。今日はシュニッツェルを食べると決めている。ただ、目当ての店が現在地から少し離れている。もしかすると市庁舎の前の広場で売っていないだろうかと思い、今日も行ってみることにした。

昨日のようにスケートリンクは市民で賑わっている。素敵な空間だ。奥のログハウスのようなレストランのメニューを覗くと、シュニッツェルとある。少し値は張るが、市庁舎前で食べられるなんて素晴らしいではないか。ということで、シュニッツェルをお願いした。

なかなかのボリューム。市民のスケートを眺めながら、ナイフとフォークで大事に切った。とにかく、ウィーンの市庁舎に魅せられた2日だった。一番の思い出になるかもしれない。そう思いながら、シュニッツェルを頬張った。

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