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ローマ⑤[2023.2.16]

ローマ2日目。昨日は怒涛の1日を過ごしたので、今日はゆっくりスタートしよう。昼間はコートいらずの暑さなので、今日はホテルに置いていくことにした。身支度をして、ネットで明後日のテルミニ発フィレンツェ行きのバスを予約し、トッレ・アンジェラ駅に向かった。

坂を登ると細い道に出る。そこからまた坂を下ると駅校舎が見えてくる。昨日は手前の非常口から乗り降りできたので、今日もできるだろうと思って非常口まで行ったが、朝はまだ閉まっていた。仕方なく、ホームの向かいまで回り込んだ。朝でもあまり通りたくない、見通しの悪い不気味な細道である。

改札を抜け、ホームに入ると電車はまもなくやってきた。重たいスーツを引っ張って歩く必要もなく、昨日とは違って気持ちに余裕がある。

さて、テルミニ駅に着くと、まずは洗濯だ。あらかじめ地図を確認しておいたので、だいたいの感覚で歩いていると、本命ではないものの、コインランドリーを発見。中に入ってみた。

使い方がよくわからない。ランドリーの中をウロウロしていると、おじいさんが入ってきた。ここに服を入れろ、と指図している。おそらくランドリーの係員なのだろう。乾燥もできるか?と聞くと、ついて来いと言われたので、言われるがままに従った。

おじいさんは、2つほど隣のスーパーマーケットに入り、レジのおじさんに話しかけた。すると、おじさんは選択で6ユーロ、乾燥で6ユーロだと教えてくれた。スーパーマーケットとコインランドリーの両方をやっているようだ。

1時間で終わるから、ランドリーで待っていてもいいし、どこかで朝ご飯を食べてきても良いとのこと。お礼を言って、周辺を散歩することにした。

朝ご飯にしよう。ぶらぶらしていると、良い感じの店を発見。ハムとチーズを挟んだパンをお願いした。

シンプルだが噛みごたえがあっておいしい。満たされて再びコインランドリーに戻った。洗濯がちょうど終わったので、大きな容器に服を入れ、乾燥機に移した。

椅子に座って待っていると、さっきのおじさんが入ってきた。どこから来たの?というので日本から、と言うと、上機嫌でそれはいいね!と言った。おじさんはパキスタン出身で、パキスタンは日本とロシアとは仲が良いと言う。どちらが1番でどちらが2番というわけではなく、1番が日本とロシアなのだそう。逆にアメリカとは仲良くないと言った。

そうこうしているうちに、乾燥も終わった。しっかり乾いているので、おじさんにお礼を言ってランドリーを出た。

今日、まず気になっているのはローマ国立博物館だ。テルミニ駅を出て右に真っすぐ進むと見えてくる。

中に入ってみた。展示はおもに帝政ローマの建設とローマの宗教から構成されている。

紀元前218年から〜紀元前201年まで続いた第2次ポエニ戦争に勝利し、ローマは共和政から帝政へと舵を切った。戦争で大きくなった領土を統治するには、審議に時間のかかる共和政ではなく、一人の権力者に決断を委ねる帝政が好ましいとカエサルは考えていた。

また、ローマでは様々な宗教が信仰されていた。パンテオンはその名を万神殿とも言うように、すべての神々を祭る神殿であった。392年にテオドシウスがアタナシウス派キリスト教を国教に定めたため、それ以外の宗教は異端とされる。

今はダキア展をやっているみたいだ。ダキアは今のルーマニアにあたる地名で、トラヤヌスはダキアに遠征。ローマの属州とした。展示のサブタイトル通り、ダキアはローマにとって最後のフロンティアだった。

なになに、ヨーロッパの歴史とは人類の主要な歴史であると書いてある(The history of Europe accounts for the major part of the history of humanity)。本当にそうだろうか。紀元前1世紀あたりには、西にローマ帝国、東に漢という2つの世界帝国ができた。その後、両者はシルクロードを通じた交易、モンゴル帝国によるグローバル経済の実現といった交流を持ちながらも西と東に世界は二分されていたのではないだろうか。日本や韓国、ベトナムといった中国の周辺の国は、中国のシステム(文書行政)の影響を多分に受けながら自国の文化を発展させてきたからだ。それに、中国は他に国が存在することを認めさえしなかった。中国が対等な国家の存在を認めたのは、1842年の南京条約でのことだった。そう思うと、世界は西の中心から影響を受ける国、東の中心から影響を受ける国があり、西のヨーロッパだけが人類の歴史を作ってきたわけではないだろう。

さて、あとはまだ見ていない観光地を回ってみよう。ということで、まずはパンテオンに来た。

思っていたよりだいぶん規模が大きい。何より、重厚感がある。パンテオンはアウグストゥスに仕えたアグリッパによる建造。その時のものはすでに消失しており、今のパンテオンは五賢帝のハドリアヌスが再建したものだ。2世紀に再建されたものが今も残っているのだから、畏敬の念を覚えずにはいられない。

ものすごい人だかりができている。パンテオンの前は広場になっていて、人々は座って食事をしている。食べかすがこぼれるので、ハトが大量に発生している。歩き回るわ、飛び回るわでなかなか大変だ。観光地での座っての飲食は禁じるべきだと思う。

続いて、ナヴォーナ広場。広場の前は列をなすようにレストランが並んでいる。多くの観光地がそうだが、レストランはテーブルを店の外に並べており、人々は外での飲食を楽しんている。どうやら、欧米の人はイケてる雰囲気の建物の前で食事を楽しむのが好きなようだ。

次は、カステル・サンタンジェロ(サンタンジェロ城)。実は、ここも気になっていたところ。

もともとはハドリアヌスが自らの霊廟として建てたもの。そのあとは軍事施設や、牢獄、避難所として使われた。実際、1527年のイタリア戦争(広義のイタリア戦争は1494年に始まり、1559年のカトー・カンブレジ条約で集結した戦争を指し、ここではフランソワ1世とカール5世の間の狭義の戦争を指す)でカール5世がローマを破壊したローマ劫掠では、クレメンス7世は7ヶ月ほどここに滞在したとのこと。

上まで登ると、ローマの街を見渡すことができる。

カステル・サンタンジェロをあとにして、近くから何枚か写真を取った。独特の形をした城塞に魅せられる。マリオカートでこんな城が出てきたような気がしなくもない。

最後は、サン・ピエトロ大聖堂。カトリックの総本山である。大聖堂の向こう側で、日が沈もうもしている。中に入ることはできるが、とてつもない行列ができているし、暗くなるといろいろ困るので、広場をぶらついて外に出た。

サン・ピエトロ大聖堂からは、オッタヴィアーノ駅が近い。出口から真っすぐ歩けば良いみたいだ。大勢の観光客が駅に向かっているが、これから大聖堂に向かおうとする人々もいる。通りにはたくさんの店が並んでおり、賑わっている。

案の定、駅は帰りの観光客で一杯だ。もう地下鉄の路線はだいたい把握したので、改札を抜け、サン・ジョヴァンニ方面の電車に乗った。

お腹が空きすぎているあまり、お腹が痛い。今日はピザ1枚をぺろりと食べられそうだ。早くトッレ・アンジェラ駅に着いてほしいと願いながら、時間が過ぎるのを待った。

車内を見渡すと、あまりケータイを触っている人はいない。目を瞑っていたり、暇そうにしていたり、本を読んでいる人が多い。確かに地下鉄は電波が弱く、インターネットにうまく接続できない。電波が良好だと人々はスマホから目を離さないが、電波が悪いと人々はスマホを見ない。

ようやく駅に到着し、ホテルまで戻った。エントランスに入ると、今朝は置いてあった自販機が撤去されている。改修工事を進めているのだろうか。

荷物を整理して、昨日と同じピザ屋に来た。今日はカウンターではなく、テーブル席に通された。

ローマに来てから野菜が足りていない。野菜らしきものを食べた記憶がない。野菜の取れるピザをお願いした。コーラも注文した。

喉が乾いているときに飲むコーラは最高だ。待っていると、店員がピザを持ってきてくれた。あまりにお腹が空いていたので、一気に食べてしまった。

ホテルに戻ってからと明日用の水を買い、ピザ屋をあとにした。まさかではあるが、思い出のピザ屋になった。


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