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「推古朝遣唐使」記事盗用説が成り立たない理由(1)

 先日、私も所属している歴史研究会「古田史学の会」の古賀達也代表のFacebookに黒澤正延氏という方の論稿であるという「推古朝における遣唐使(一)」(『多元』175号)が好意的に紹介されていました。
 この内容を簡単に言うと、『日本書紀』「推古紀」にある小野妹子らが「唐」に派遣されたとする記事(そのまま解釈すると「遣唐使」だが通説では「遣隋使」としている)は、実際には大和政権が派遣した記事ではなく九州王朝の記録からの盗用である、というもののようです。
 その古賀さんの紹介を見て、私は驚きました。私はこれまで、『日本書紀』「推古紀」における遣唐使記事は大和朝廷の記録に基づくものであって、決して「造作」や他政権からの「盗用」等ではない、ということを論証してきたはずだからです。
 ここまで書くと、古代史に興味のない方からは「何を言っているのか、さっぱりわからない」と言われそうですので、これまでの論争の経緯を簡単に説明します。
 皆様は小学校で「聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣し、国書には『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す』と書いた」という事を聞いたことがあると思います。
 しかし、実はそのような記録は『日本書紀』には一切存在しません。
 そもそも『日本書紀』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」等と言う国書は全く登場しませんし、さらに小野妹子が派遣された先も「隋」ではなく「唐」となっています。
 これを通説では、「唐」と言うのは「中国全般」を指すのであろう、としていました。
 まぁ、そこまでは通説の編年だとこの時代は隋の時代ですから「許容範囲内」ではあります。しかし、だからと言って『日本書紀』に載ってもいない国書を「聖徳太子が書いた!」と言うのは、あまりにも根拠に乏しすぎます。
 実は歴史教科書に載っている国書と言うのは、『隋書』「俀国伝」で「多利思北孤」という人が送ったと記されているものであり、聖徳太子が送ったという根拠はありません。
 なお、通説では『隋書』の「俀国」を「倭国」の間違いとしていますが、実はこれについても戦前の段階で藤田元春という学者が1937年に「魏志倭人傳に見えた伊蘇志の一族」という論文を発表、俀国を倭国の誤字とするのが「定説」であるという主張について「筆者は不孝にして、そうした定説あるを知らない」とし、さらに『隋書』だけでなく『北史』でも俀国の表記が為されていることに触れて、御自説を定説扱いする人について「果たして北史を読まれたのであるか、どうかを疑わざるを得ない」とまで激しく批判しています。
(このように昔から誤字説を批判する声があるのに、歴史教科書は一方的に誤字説で貫かれています。)
 また、一部の学者は「多利思北孤」を「聖徳太子の別名」としています。しかし、聖徳太子が推古天皇を差し置いて「天子」を名乗り国書を送るのは考え難いことであり、仮に「いや、実は聖徳太子は推古天皇を差し置いて天子を僭称するような男であったのだ」というのであれば、そう言う方が根拠を示して論証しなければなりません。
 この問題について、一つの「解決策」を提示した論文が古田武彦先生の「日本書紀の史料批判」(『文芸研究』95号、1980年)です。なお、冒頭で触れた古田史学の会は古田先生の歴史学を継承する会です。
 ここでの古田先生の主張を要約すると、次の通りです。

(1)『日本書紀』「推古紀」には「隋」の使用例もあるから、「唐」と「隋」は使い分けられていたはずである。
(2)従って「推古紀」における「唐」は文字通り唐のことと解釈するべきであり、ここでは「年代のズレ」があると思われる。
(3)同じく「推古紀」には推古17年(609年)に「呉」という国が登場するが、当時の中国に「呉」は存在しない。
(4)ところが、この「609年」を12年ずらして「621年」と解釈すると、隋末唐初の混乱期であり、李子通が「呉」を建国していた(李子通云々は、古田先生が後から補強した部分)。
(5)従って、この「呉」に関する記事には12年程度のズレがあり、これは「唐」に関する記事にも適用できるであろう。
(6)つまり、小野妹子は通説では「607年に隋へ派遣された」と解釈されているが、これは「619年に唐へ派遣された」ということである。
(7)『隋書』における多利思北孤の「俀国」の記事は『日本書紀』と一致しないので、これは大和政権ではなく九州王朝のことである(遣隋使を派遣したのは九州王朝で、大和政権が派遣したのは遣唐使であった)。

 私もこの立場を踏襲し、2020年に「『日本書紀』十二年の後差と大化の改新」(『古代に真実を求めて』第23集)という論文で古田説の正しさを論証しました。
 さて、古田先生は『日本書紀』に記載の「無い」遣隋使派遣が九州王朝によるものであるとはしましたが、『日本書紀』が記載「している」遣唐使記事が大和政権によるものであることは、全く否定していません。否定するだけの根拠が無いのですから、当たり前のことです。
 それどころか、私はこの記事を「九州王朝からの盗用である」と主張した瞬間、九州王朝説は一気に「学説」から「トンデモ説」へと転がり落ちかねない、とさえ思っています。
 私は「推古朝遣唐使」記事を九州王朝のものと考えることは矛盾が多いと考えていたのですが、改めて私の論文を読むと、その点についてはあまり力点を置いていませんでした。
 しかし、この度黒澤氏が異説を唱えたという事ですから、私はまだ黒澤氏の論稿を読んではいませんが、私が何故黒澤氏と違う結論になったのか、を説明する必要があると思います。
 さて、私自身の論文では明確ではなかった「推古朝遣唐使記事は九州王朝からの盗用ではない」という命題は、実は既に論証に成功している学者がいます。ただし、その方は文献史学者ではなく天文学者で、九州王朝説を支持している古田史学の会のとも、アンチ九州王朝説論者として著名な安本美典氏とも親しい、中立的な立場の学者です。
 その人は国立天文台特別客員研究員の谷川清隆先生です。実は私は天文マニアで、谷川先生が以前から天文学者の観点から古代史に関する研究をされていたことに注目をしていました。
 問題の谷川先生の論文は、古田史学の会が発行している『古代に真実を求めて』の第24集に掲載された論文「『日本書紀』推古・舒明紀の遣隋使・遣唐使」です。古田史学の会発行の論文集に掲載されているのに、いわゆる「古田学派」の研究者がこれについて触れていないことを私は残念に思います。(続く)

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