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政治家に「信仰を隠す自由」はあるのか?

 かつて立憲民主党の議員が閣僚の信仰について問い質すと「信教の自由への侵害である」と言う批判がネトウヨから起こり、報道によると日本共産党も当該議員の質問に「同調しない」という立場のようです。
 彼らは恐らく「信仰の自由には信仰を隠す自由も含まれる」と言う解釈なのでしょう。
 私は法学部出身では無いですが、当該議員は弁護士です。当然、信教の自由については百も承知のはずですが、私も素人なりに憲法学の教科書的存在である芦部先生の『憲法』を読んでみました。するとこう書いてあります。

「信仰の自由とは,宗教を信仰し,または信仰しないこと,信仰する宗教を選択し,または変更することについて,個人が任意に決定する自由である。これは,個人の内心における自由であって,絶対に侵すことは許されない。この結果,①内面的な信仰の自由の外部への表現である信仰告白の自由が当然に認められる。国は,個人に対し信仰の告白を強制したり(たとえば,江戸幕府がキリシタン禁圧のため行った宗門改め),あるいは信仰に反する行為を強制したりすること(たとえば踏絵)は,許されないし,宗教と無関係な行政上・司法上の要請によっても,いずれの宗教団体に属するかなど,個人に信仰の証明を要求してはならない(もっとも,ここに言う「強制」とは,直接的ないし物理的なものに限られず,間接的・付随的な負担を個人の信教の自由に課すものも含む)。②信仰または不信仲のいかんによって特別の利益または不利益を受けない自由(これは憲法14条の「信条」による差別の禁止と重なり合う),③両親が子どもに自己の好む宗教を教育し自己の好む宗教学校に進学させる自由,および宗教的教育を受けまたは受けない自由(この宗教的教育の自由を宗教的行為の自由の一形態とみる説もある)も,信仰の自由から派生する。」

 この解釈は憲法学の通説的なものでしょうが、世間一般の感覚とはかなりズレがあるようです。
 例えば、③の「両親が子どもに自己の好む宗教を教育し自己の好む宗教学校に進学させる自由」については、今話題の「宗教二世」問題の解決を困難とするでしょう。
 もっとも、過去に述べたように「宗教二世」と言い方だと、殆どすべての国民は生まれながらに産土神社や伝統仏教の信者としてカウントされているのですから、この用語を使う人の本当の目的が「カルト二世」問題の解決ではなく、神社神道や伝統仏教の弾圧にあることは明白です。そうした宗教弾圧を防ぐために③の自由があるというのは、一応合理的な解釈であるとは言えます。
 しかしながら、法律上は未成年者にも行為能力は無いが意思能力はあると解釈されており、それと③の両親の自由とを組み合わせると、両親が子供の意思を無視して特定の宗教学校に進学させることも認められてしまいますし、実際現行法ではそれを阻止することは困難であるはずです。(児童相談所が「保護」して学校にも通わせないという怖ろしい強権発動の例はありますが、児童相談所の問題点については別に触れさせていただきます。)
 生長の家や霊友会、立正佼成会のように伝統宗教との二重信仰(実際には多くの場合は神社神道・伝統仏教との「三重信仰」)を原則とする新興宗教であるとこうした問題は起きにくいですが、アメリカでは子供を学校に通わせることを拒否する一部クリスチャンによるホームスクール運動があり、日本でもほんみちのように高校進学を拒否している新興宗教が存在しています。
 ホームスクール運動もほんみちも、どちらも反社会的な活動はしておらず、彼らの信仰自体は信教の自由の範囲内なのですが、もしも両親がこれらの宗教の信徒で子供が学校に進学したいという希望を持っていた場合どうするかは、現行法は充分に想定していないと感じます。恐らく大多数の日本人は「子供を学校に進学させてあげるべき」と考えるのではないでしょうか?
 話を戻すと、信仰の告白を強制されないことも信仰の自由に含まれると現在は解釈されており、その理由として江戸時代の宗門改めのような行為の防止が挙げられています。
 しかし、宗門改めが「宗教弾圧」として機能したのはキリスト教や日蓮宗不受不施派への弾圧の一環として行われたからです。また、信仰の告白の強制はあくまでも「国家による強制」が禁止なのであって、信仰を隠す自由自体を認めたものではないと解釈するべきでしょう。
 信仰を隠す自由を一度認めると、正体隠し勧誘等を規制することが出来なくなります。
 さらに政治家の場合は「信仰告白」をしないことにより二枚舌を使う例も見られます。
 例えば、自民党の議員の中には複数の宗教団体から推薦を受けている方が多くいますが、その中には神道政治連盟に対しては「靖国神社参拝賛成」の政策協定を結び全日本仏教会に対しては「靖国神社参拝反対」の政策協定を結んでいる例があることが知られます。
 そのような、信仰上の二枚舌を政治家が駆使することを認めることが、本当に「信教の自由」の名の下に許されるべきなのでしょうか?
 私は信教の自由はあっても詐欺の自由はないと考えます。従って、政治家が自分の信仰について嘘をつくことは、正体隠し勧誘と同様、批判の俎上に載らないといけないと考えます。


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