イスラム教と浄土真宗の肉食について

 古今東西の偉大な宗教家は皆、美貫かそれに準ずる生き方をする者であった。
 キリスト教ではパウロが肉食を容認したため、肉食を容認するクリスチャンが多い。だが、全てのクリスチャンが肉食を平然と行っていたわけではない。カトリック教会では定期的に節制と称して菜食を行うことが推進される日があり、また、今でもカルトジオ修道会やトラピスト修道会の修道士は一年を通して菜食を実践している。
 正教会にも菜食を実践している修道士は多いと聞く。どのような宗教を信仰していても、自らの良心に随って信仰を深化させ、実践させれば自ずから美貫の方向へと導かれるのである。何故ならば、全ての人間の心の奥底には仏性があるからである。この「仏性」を『旧約聖書』では仮に「神の子」と表現したのである。
 弘法大師空海聖人も立正大師日蓮聖人も美貫であった。生長の家創始者の谷口雅春先生も菜食を実践しておられた。
 こうした中、イスラム教と浄土真宗において肉食が容認されているのは、一見奇妙なことである。どうしてムハンマドや親鸞上人は肉食を容認したのか、美貫主義を考える上でそのことを考察しなければならない。
 我々が考察すべきは二点である。
 第一に、イスラム教と浄土真宗はどうして肉食を容認しているのか。
 第二に、ムスリムや浄土真宗の門徒は信仰を棄てずして美貫になれるのか。
 本稿ではそのことを考察する。

 『コーラン』には「食卓章」というものがある。そこの冒頭では次のように記されている。

あなたがた信仰する者よ、約束を守りなさい。あなたがたに対し、今から読みあげるものを除いた家畜は許される。ただしあなたがたが巡礼着の間、狩猟は許されない。本当にアッラーは、御好みになられたことを定められる。

 これを読むと家畜を食べることは条件付きで認めれていることが判る。ただし、巡礼中の狩猟が許されないことから、アッラーは実際には動物を殺すことを好ましく思っていないことも判る。
 そして、次のように食事に関する戒律が定められている。

あなたがたに禁じられたものは、死肉、(流れる)血、豚肉、アッラー以外の名を唱え(殺され)たもの、絞め殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、野獣が食い残したもの、(ただしこの種のものでも)あなたがたがその止めを刺したものは別である。また石壇に犠牲とされたもの、籤で分配されたものである。これらは忌まわしいものである。今日、不信心な者たちはあなたがたの教え(を打破すること)を断念した。だからかれらを畏れないでわれを畏れなさい。今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。しかし罪を犯す意図なく、飢えに迫られた者には、本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。

 これは単に豚肉だけを禁止したわけではない。牛肉や鶏肉であっても、アッラーの名前を唱え、且つ、上記に列記された以外の方法で屠殺された動物しか食べてはいけない、というのである。
 アッラーは決して動物を殺すことを推奨しているわけではない。もしも動物を殺すことが悪いことではないのであれば、アッラーは巡礼中の殺生も喜んで推奨するはずである。現に『旧約聖書』のヤハウェは「羊の肉を生贄に奉げよ」というような神だったではないか。
 しかしながら、アッラーは違う。動物を殺すことは良くないと考えているのであるけれども、ただ、ムハンマドは砂漠の遊牧民であった。遊牧民相手に「美貫になれ」という訳にはいかないのである。
 もしも菜食の実施が困難な遊牧民に「美貫にならなければ地獄の業火に苦しむであろう」と言う神がいれば、それは「寛容にして慈悲深」い神ではないのである。
 また『コーラン』には前述の文の直後で次のように記されている。

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