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統治行為論正当化に利用される国民主権思想

 立憲主義と民主主義とを統合で結ぶ者もいるが、「民意か、憲法か」と問われれば「憲法」を取るのが立憲主義である。
 例えば、いくら安倍政権が国民の支持を得ていたとしても、安倍政権に憲法を無視する権利はないというのが立憲主義の根幹であって、その点で民主主義は常に立憲主義の挑戦者となり得る要素を持つ。
 共和国における憲法と民意の関係については、フランス型とアメリカ型とが存在する。
 フランス型の国では「国民主権」優位である。そこでは国民の意思によって憲法を破棄することも可能である。
 現にフランスでは戦後になっても憲法破棄を行っている。フランスは立憲主義の国であるとは言えない。
 一方で、アメリカ型の国では「立憲主義」優位である。『アメリカ合衆国憲法』には「国民主権」が明記されていないほどだ。
 アメリカでは大統領を選ぶのは国民ではなく、各州で選出された選挙人である。選挙人が有権者の意思を無視して造反しても有効票として扱われることがあるほどである。つまり、民意は憲法の名の下に無視されることがあり得る。
 フランス型の国における「国民主権」には「憲法制定権力が国民にある」という意味が含まれている。だから国民には憲法を破棄する権利すらある。アメリカとは大きな違いである。
 君主国の場合、憲法制定権力の存在は認めないことが多い。つまり「立憲主義」優位の体制である。
 その典型がイギリスである。イギリスでは主権は「議会における国王」にあると表現されることがあるが、国王も国民も議会を無視することはできない。つまり憲法制定権力を行使は出来ない。
 日本でも建前としては憲法制定権力が行使されたことは無いということになっている。
 『日本国憲法』の前文には「日本国民は、(略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とあり、これを素直に読めば国民が憲法制定権力を発動したとしか思えないが(革命憲法説)、日本政府は詭弁に詭弁を重ね・・・ることすら放棄して「『大日本帝国憲法』の改正で『日本国憲法』が成立した!」との妄想(改正憲法説)を、多くの憲法学者や政治家からの反論を無視して述べているのである。

 従って、日本では公然とフランスのように「民意さえあれば憲法を無視しても良い!」と言う暴論が語られることは少ないが、それでも安倍晋三元首相は「民主主義に立憲主義は不要」と言う思想を公言しており、立憲主義は軽視されつつある。

 しかも問題なのは、そのような暴論を最高裁も認めているということであろう。というのも、最高裁は国民主権論を基に統治行為論を主張しているからである。

わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであつて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきでない。直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきものである。

最高裁昭和30(オ)96同35年6月8日大法廷判決

 要するに「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」は仮に「有効無効の判断が法律上可能である場合であつても」「その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され」るという、本来「法律上可能」な判断を裁判所が行わないというトンデモ判決である。
 そして、その大前提として「主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会」と言う認識、即ち国民に憲法制定権力と言う意味での主権があるとの主張が統治行為論という立憲主義軽視論に利用されている訳である。
 こういう状況を防いで立憲主義を徹底するためには、憲法制定権力という考え方自体を否定する必要があるであろう。


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