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「普通」について。 #かくつなぐめぐる

「書くこと」を通じて出会った仲間たちがエッセイでバトンをつなぐマガジン『かく、つなぐ、めぐる。』。10月のキーワードは「宇宙人」「憂鬱」です。最初と最後の段落にそれぞれの言葉を入れ、11人の"走者"たちが順次記事を公開します。

「そっち、食べる部分じゃないよ!」

 焼魚に添えられた“はじかみ生姜”をかじる私に、彼女は宇宙人でも見るような視線を注いだ。

 就職してちょうど3年が過ぎた春。突然仕事を辞めた友人の四国旅行に合流するため、私は高知へと向かった。ビジネスホテルやユースホステルを転々としていた彼女は、その夜、私と泊まるために旅館を予約してくれた。そこは渓谷を流れる川沿いにあり、夜は露天風呂からライトアップされた川を見下ろせる、少し値の張る宿だった。風呂上がり、浴衣に着替えた私たちは1階の宴会場で夕食を囲んだ。

 お膳には、小鉢に入った和物やおひたしが並んでいる。焼き魚の上には茎の先が紅色に染まった細長い葉生姜が添えられていた。私はその白っぽい根の部分、つまり生姜本体の方を食べていたのだが、友人は「赤い茎の方を食べるのが普通だ」と主張したのである。

「……え!?」

 生姜なのだから、食べるなら「茎」ではなく「根」の方であるはずだが……私が間違っているのだろうか? どこか釈然としないものの、堂々と言い放つ友人を前に、私は自信がなくなってしまった。

 以前から、「◯◯するのが普通だよ!」という言葉に、私は弱かった。子供の頃も周囲とズレていると感じることが多かったので、何か指摘される度に「私の方がヘンなのかもしれない」と思ってしまうのだ。

 その友人とも、些細なことでよく意見が食い違った。彼女の家に遊びに行き、一緒に夕食を作ったときのこと。味噌汁に入れるカブを“イチョウ切り”にしたところ、「“クシ切り”にするのが普通だ」と言われた。サラダを盛り付ける際、私は皿の中央から円を描く様に規則正しくトマトとキュウリを並べたのだが、「家で食べるサラダはもっとざっくりと盛るのが普通だ」と断言された。

 人は何を基準に、自分の考えや行動が「普通」であると思うのだろう。長い間、私にとって「普通」という言葉は「正しい」と同義語だった。「世の中の大半の人が『普通』にやっていること」こそが正解であり、いわゆる「普通」と言われることに沿ってさえいれば、少なくとも「世の中の大半の人」から否定されることはない。

 しかし最近になって、「普通」の定義というのは思っていた以上に人それぞれなのだと気付いた。赤か白かではなく、色とりどりの「普通」が数多く存在する。この世の中では、誰もがそれぞれ微妙に異なる「普通」の定義を持っていて、それでもどうにか一緒に生きるため、折り合いをつけているのだ。

 カブの切り方がどうであろうと、サラダの盛り付け方がどうであろうと、我々は同じ世界で生活しなければいけない。「普通」や「常識」を口にするのは簡単だが、それらの言葉を使ったとたんに、誰かの「普通」を否定しかねない。これほど危うい言葉もないだろう。

 そう考えると、自分の「普通」に自信が持てなかったあの頃の私も、案外悪くないのではないかという気がしてくる。他人の「普通」からすれば、自分はある程度「ヘン」なのであり、その逆も然りなのだ。

 しかしあの夜、膳に上っていた“はじかみ生姜”は、やはり白い方を食べるべきだったのではないか。そういえば、あの友人には長いこと会っていない。もしまた一緒に旅行に行く機会があったなら、旅館に泊まるのはやめておこう。魚の上の“はじかみ生姜”を前に「赤だ」「白だ」と言い合うのを想像すると、少しばかり憂鬱になる。

バトンズの学校1期生メンバーによるマガジン『かく、つなぐ、めぐる。』。今回の走者は、神田朋子でした。次回の走者は、おにさん。更新日は10月16日(日)です。お楽しみに!

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