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フェイクニュースからデザインの意義を考える

「情報リテラシー」という言葉を初めて聞いたのは、大学一年の時だった。

これからデザインを学ぶ人は、「情報を自分の目的に合わせて使いこなす能力」を身に付けることが重要です、というのを繰り返し教えられたのを覚えている。当時は「全体」「部分」「統合」といったまるで数学の教科書のような単語での説明に、はぁ、そうなんですね、という曖昧な理解しかできなかった。

今振り返ると、自分のデザインが環境とか社会といった大きな枠組みの中でどのような役割を果たすか、あるいは、そのデザインを新たな枠組みで捉え直すことができるか、という視点を持つことを強調していたように思う。

その視点がいかに重要で、いかに大変か、というのをそれから10年経った今、強く感じている。


話題や速さへの警鐘


昨日NY timesで2ヶ月、紙の新聞だけでニュースを読んでわかったことに対する記事を読んだ。記事の内容は要約するとこんな感じだった。

「通知される」という状況に慣れた私たちは、逆に「通知されない」という状況に不安を覚えるようになった。ニュースのデジタル化が「共同で情報を吟味する」ことを難しくしている。通りを往復する拡声器での宣伝活動のように、誤った情報や偏見ある情報がいやでも聞こえてくる状況が、もうあえて取り上げることもない「普通」になっている。でも政策やフェイスブックにこの社会の修理を任せるだけじゃなくて、もうそろそろ読者側が努力しないといけない。何を読んでいるのか(ニュースなのか、それとも誰かのコメントなのか)を見極めること、内容の速さではなく深さで情報元を選ぶこと、事実よりも「話題」を優先するソーシャルメディアを避けること、これらをすすめたい。

このフェイクニュースへの警鐘は「トレンドに合うもの」「受けがいいもの」に偏りがちなデザイン分野にも当てはまるように聞こえた。

要約最後の部分をデザインの文脈に置き換えると「何をつくっているのか(デザインなのか誰かの受け売りなのか)を見極めること、内容の速さではなく深さで提供すること、意義よりも「話題」を優先する環境を避けること」と言える気がしてならなかった。


デザイナーの価値と責任


ファースト・シングス・ファースト」(First Things First)という声明文がある。グラフィックデザイナーや写真家といった視覚的情報を扱う職業に携わる者の価値や責任を訴えるマニフェストで、イギリスのデザイナー、ケン・ガーランドによって1964年に発表された。2000年にも新たなバージョンで発表されている。(2000年版日本語訳を掲載しているブログ記事はこちら。)

(画像はケン・ガーランド氏のサイトより)

デザイナーたちは自分たちの能力や技術に対し批評的になるべきではないか、商業や広告のために消費するだけでなく、社会的活動や、教育・文化など、もっと意義のあることに使うべきではないか、という訴えに多くのデザイナーが署名し、今でも数々のデザインスクールやカンファレンスで引用されている。

この声明文の存在を教えてくれたのはロンドンの大学院の時の恩師で、それと一緒にTibor KalmanAdbustersCOLORS magazineなど、私のデザイン観を大きく変えるきっかけとなった、数々のものを教えてくれた。

それらの名前をあげた後、彼女はこう付け加えた。

「最初の発表が30年以上前で、2000年にも再提起されたけど、今の状況は変わったと思う?」

はっとして何も言えなかったのを鮮明に覚えている。

フリーランスとして、作業だけではなく自分で営業や会計をするようになり、仕事を選ぶことがどれだけ難しいか、肌身に感じている。食いはぐれるわけにはいかないし、理想の仕事がいつも降ってくるわけでもない。クライアントとの交渉に疲れて、こなし作業になっていることも多々(本当にたくさん)ある。

でも、自分のやっていることや選択が些細なことではないことを思い出さなくてはならない。視覚的デザインには、色の違いや大きさ・レイアウト・文字の違いなどで、ある情報を友好的にも懐疑的にも「操作」できるという、結構すごい能力と責任がある。また、ひとつの仕事を請け負うということは、その仕事の意義やその先にある産業を支えていることになる。

そういう価値や責任を俯瞰できる視点を持ち続けなくてはならないと、今日改めて強く感じた。

Cover Photo by Toa Heftiba


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