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「ギンギラギンにさりげなく」伊集院静様と鈴木先生。

伊集院静と聞くと、夏目雅子さんを思い出します。

伊集院さんは、作詞家でもあり、伊達歩でしたか・・。


学生時代、苦手な先生、鈴木先生が、急に、「『ギンギラギンにさりげなく』はいいぞ」と、言われたことを思い出します。

たのきんトリオ、マッチこと、近藤真彦さんには、ほとんど興味もなく、洋楽ばかり聞いてました。

先生は、もちろん、マッチの歌でなく、その歌詞の内容のことでしたね。

なんせ、へそ曲がりも、曲がった、一癖ある、東北大学出身の教授さんでしたから。

学生時代は、「いいぞ!」と言われても、確かめもしないで、ただ「ギンギラギン」が派手なイメージで、「さりげなく」が地味なイメージで、反意している、矛盾というか、その間の行間に生まれる、不思議な空間。

それが、英文学にもあるんだぞ!という、諭し方の方法であったかもしれないと。

「日本人のわび・さび」につながるような、「武士道」にもつながるような、なんとも、微妙なところをついてみえた。

翌年は、難関ウルフとなるわけであった。

卒業間際は、鈴木先生の、「奥の細道」の講義を取りました。

この時も、理解したようで、してなくて、コロナ前でしたか、100分de名著シリーズで、勉強しなおしました。

「古池や 蛙 飛び込む水の音」

これは、古池、蛙は、想像で、実際に飛び込んだわけでなく、動・静を表すための・・・と、抽象的な表現で、まとめられていたようです。

先生の心の中には、俳句、英文学の沼にあったかのような気がしてなりません。落ちこぼれの私は、教授の部屋で直接出向いて、問いただす、勇気は、学生時代はありませんでした。どの教授からも、レポートの趣旨が違うから、書き直しとか、早くレポートを提出しないかとか、そんなことばかりでした。

私なぞ、想像力の欠如と、読書量が少なかったためか、かなり絞られました。

辛かったです。

が、社会人になって、伊集院静さんの存在を知り、マッチの歌の作詞家であったことも。伊集院さんの作品は、「乳房」しか読んでませんが、あれも、試写会で、映画を見て、なんとなくですけど、夏目雅子さんそっくりの女優さんでしたので、夏目雅子さんとの闘病生活の話なのかなあと。図書館で借りた本ですから、手元にありません。

伊集院様も、今年お亡くなりになられました。ご冥福をお祈り申し上げます。


ふと、考えました、「生きる」「死ぬ」その間にあるのが、「瞬間」、「瞬間」を捉える、心、シャッターチャンス。なんて、いったら、写真家、いやいや、「瞬間」を生きているのです、我々人間は。明日はどうなるかわからない、今から1分後、1秒後、・・。「瞬間」を捉える。


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