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読書記録 / 私の夢はスイスで安楽死

かねてからフォローしているくらんけさんの本「私の夢はスイスで安楽死 難病に侵された私が死に救いを求めた三十年」が出たので早速読んでみた。(幼少期から難病を抱える、スイスで死ぬ権利を得た女性)

昔から「世の中がこう変わったらいいのにな〜」と思っていたことは、徐々に叶ってきている。以前は散々馬鹿にされていたワークシェアリングや複業もこの10年で随分と市民権を得てきたし、複数拠点で生活する人も増えてきた。仕事の仕方や生活の仕方は随分とバリエーションが増えてきたように思う。家族の在り方ももっと変わるよなと思っているので、これから積極的別居婚とか趣味で繋がるシニア向けシェアハウスとかも増えると思っている。

ただ、私が一番強く実現してほしいのは、安楽死や尊厳死、いわゆる死の権利で、生きているうちに日本で実施されるようになるのが悲願。(私をよく知る人は、昔からずっと言っていることを知っている)

人生とは誰のためのものなのか?医療や治療行為は誰のためにあるのか?今この国で当たり前にある医療現場の常識は、やっぱり私には理解しかねる部分が多いなと本を読んで改めて思った。
なぜ辛くても生きることが良いことで、死を望むことはいけないことなのだろうか?どれだけ辛くても死にたくない人もいるから、そういう人は治療に励めばいいし、医療は頑張って支えていけばいいと思うけど、死にたいと思う人が責められる道理がわからない。(法律で自殺幇助禁止されてるから、医師がその処置をすることがダメなのは理解するけど、もっと手前の考え方・精神論的な部分で死をえらんじゃだめっていう考えがあるよなと感じている)

いつか治るかもしれない、治療法ができるかもしれない、死んだら終わり、っていうけど、そのためにいつになるかわからないものに何年も耐えて辛い思いをする必要はあるのだろうか?どっちがいいかは当事者が決めることではないのか?

ずっと管に繋がれ、話すこともできず、数年生きた親戚もいた。家族・親族は、それでも生きてくれたら良いと思っていたのだろうが、当人は果たしてそれを望んでいたのだろうか?
少なくとも私は、自分が自分でいられない状態になって生きながらえるくらいなら太く短く生きたい。
家族が悲しむから、家族が望むから。そのためなら本人が不幸でも良いのだろうか?

非常に難しい、唯一解のない話題ではあるが、だからこそもっと多くの人が真剣に向き合い議論していく必要のあるトピックだと思う。社会保障費云々とかいう側面から議論が必要っていう人たちもいるけど、私はそういうマクロな話ではなく、もっと個人の権利、尊厳として、安楽死を推していきたい。



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