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Home sweet home

Home sweet home - 日本語だと、”帰ってきてホッとする場所”、と言ったところだろうか。

私が東京で生活していた時は、一日が終わって、アパートに戻り、靴を脱いで、鞄をおろした時に、ホッとしたものだった。そしてたまに実家に帰って、東京よりずっと見通しの良い空と、街の中を滔々と流れる川面を見ていると、幼い頃の思い出が浮かんできて、肩から力が抜けていくような感覚がしたのを覚えている。これもきっとホッとする場所なんだろう。

やがて日本から遠く離れた地に住むことになった。それからは、機上から小学校で脳裏に刻まれた日本の海岸線、富士山、そして建物がぎゅっと詰まったちょっとスモッグがかった東京の姿を見るたびに、帰ってきたんだなーとホッとしたものだった。そしてその頃は日本そのものが私のHome sweet homeになったのだと実感したし、そう信じていた。

その感覚に揺らぎが見えたのは、日本を離れて数年経った頃だった。それは初めて他の国を訪れてから日本を訪れ、そして当時住んでいた場所へ戻った時。この時も、日本上空から富士山を見たときは懐かしさとともに、ホッとした感じがした。実家を訪れて、故郷のHome sweet homeも確かに実感した。

でも日本を離れる日が近いてきたころ、友人や家族とまた離れる寂しさを感じつつも、当時住んでいた地に戻るのを、何処か心待ちにしている自分がいるのに気がついた。長期間の旅行で、疲れが溜まっていたのかもしれない。

日本から飛び立ち、長時間のフライトを経て、やがて当時住んでいた街に近づいた。窓から真っ青な空の下に広がる赤土、ゴツゴツとした岩、点々と広がる乾いた濃い緑を見て、どこかホッとした感情を覚えた。その時、心変わりを見透かされたような密かな罪悪感を覚えた。

そしていくつかの街を転々としていくうちに、戻ってきてホッとする場所がひとつづつ増えていくとともに、密かな罪悪感が次第に薄れていった。

不思議なもので、全く縁もゆかりもなかった土地でも、何年か住んでいるとそこでの新しい人とのつながりができ、人々とのやりとりから新しい記憶が日々作られていく。そしてその地を何かしらの用事でしばらく離れて、再びその風景を目にし、空気を肌に感じると、ホッとして肩から力が抜けていく感じがするようになる。

何かの折に、私のHome sweet homeはどこかと聞かれて答えに詰まった。
日本とか私の郷里というのがそうなのかもしれないと思ったけれども、自分の住んでいる、または住んでいた土地に帰ってくるたびに同じような感覚を持つ自分がいることは否めなかった。その会話の中で、Home sweet homeはひとつしかないと言う人たちもいた。

けれど私にはひとつに決めることができなかった。いろいろな地で見た風景や、その地の空気感や、そこで培った思い出は、日本の風景や思い出と同じくらい大切で、それに順位をつけることができなかった。

またある時、学生時代をともに過ごした友人とその土地の話をしていた。ある友人はキラキラした宝石箱のような風景をもっていて、ある友人はちょっとどんよりした曇り空の風景を描いていた。私の風景はちょっと単調で物足りないものだった。同じ土地で同じひと時を過ごした友人の間でも、私の思い描いている風景と友人たちのものが同じでないことに気づいた。

これからまた街を点々とするたびに、私のHome sweet homeは増えていくだろう。そしてそれは他の人の思い描いているHome sweet homeの風景とは多分ちがうのだろう。でもそれでいいような気がする。だってそれは私たち一人一人の中に、自分の描いた風景として、未来永劫残していくものだから。

Photo by Heinz Klier from Pexels

#未来に残したい風景


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