見出し画像

ともす横丁Vol.24 まなざしと態度

多くの場合、感じるまなざしは他者か自分だ。他者は社会全般として捉えているものであったり、特定の個人であったりする。社会全般であると大抵は自分の能力の不足や適合できない自分のありようを思い知らせる方向に向く。何の実態もないのに関わらず、自分のまなざしとなって自らを苦しめる。他者と言いつつ、内なる自分が作った幻想だ。

一方、個人のまなざしは、自分を形作るうえで重要な立ち位置にいる存在が多い。両親だったり、コミュニティの上にいる人たち。自分を護るため、あるいは愛されたくて、欠かせない視点。自分をこの世界に生かし続けるために必要な視点。他者の眼差しは生きる術を身に着け、居場所を作るためにある。

まなざしは反射しあっている。お互いに反射して反応しあい、社会を含めた他者と自らの位置と姿を確認しあっている。そうして無意識のうちに態度は形成されていく。

しかし、人でないもの…天や神、太陽、風や水などの自然のまなざしを感じたとき、閉じ込められた世界から解き放たれ、ふわっと舞い上がるような感覚になる。囚われが解けて放たれ、自由を得たような。可能性が拓かれる。許可も赦しも必要ない。大いなるものとつながり、宇宙を流れるエネルギーを感じ、ただ受け取る。大いなるものと対話しているうちに、そのエネルギーが私という器の中に充ちていく。生かされていると感じる。そうしていると態度は決めるというより、自ずと決まるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?