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リロードボタン

時の流れと共に日常が過ぎていくなか。
哲学とは、ひとりリロードボタンを押す行為だと思っている。
「とは」を、自分の中へ落とし込んでいる。

「これ、なんて言えばいいのかな…」誰かが話の途中で、頭のリロードボタンを押している。

そこに、つっかかるなにかさえ、出てこなければ、卒なく過ごせて行けるのに。
なにかをキャッチしてしまったからには、そこで回転してしまう。

この、ぐるぐる渦を巻いていることを。
魚の骨が喉に刺さったような、飲み込んでも、飲み込んでも、突っかかったまま
不快で、痛くて、仕方ない。

わたしは哲学は「問い」を考えるだけではじゃなく、
人間がなにかに「反応」した瞬間の感覚も、同じものなのではないかと思う。

小学生の頃の集団登校でわたしだけアスファルトに張り付いてるガムが目に飛び込んで、
しばらく目で追ってしまうような感覚は、

まるで、自分だけ違う空間にいるような感覚である。

わたしだけ、気づいている、ガムの存在。
みんなはソレには見向きもせず、なにか楽しそうに話しながら通学路を歩いていく。

わたしだけ、気にしている。

哲学って、こんな感覚なのではないだろうかと、
わたしは勝手に思っている。

統合失調症もまた「気になる」から逃れられない。
感じ取ったものからの「なにか」からの反応でリロードボタンを、何度も押している。

まるで、考える層が螺旋状でパラレルワールドのようになっていて、ぐるぐるしている。
自分が層ごとに一人ずついて、それぞれが感じたものに物議を醸すから、収拾がつかなくなる感覚。
自分の中のバラバラな思考を再装填する為に、リロードを繰り返して、やがて脳が無理矢理辻褄を合わせるために、幻覚を作り出す。

それが、日常に支障を起こすのが病気で、
それを、問い続けられるのは永遠の妄想が続けられる統合失調症の得意分野なのかもしれない。とても苦しいけど。

ほら、また今どこかで、哲学の渦まく音が聞こえてくる。

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