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敵は我にあり

 今日はとっても良い日でした。人の心の影に触れるのって感慨深いものあるよね。

 ハローハロー私はSNSリセット症候群(そんな言葉あるのかな?)を患う愛知県在住のしがない切り絵作家です。もうさ。15年もやってるんだよ。なのに日の目を見ない作品の数々!私にスポットライトを当てる係の方、明日は必ず出勤するように(笑)

 私はよくSNSをリセットします。きっかけはいつもとても些細なことです。晩御飯がまずかった→イライラする→つまんない投稿しか見受けられない→イライラが増す→かねてより仲の悪いネットの民がいざこざをまた引き起こしている→イライラしてさらに白ける→リセット。このような具合でございます。そんなわけで虫の居所が悪いから気分のムラでリセットして後悔してを繰り返す。この負のループから最近抜け出すことができたかなぁと思っているのでシェアします。え?表題と話の内容が違いすぎないかって??せっかちだなぁもう。リセットしちゃうぞ~。

 話が全然変わるようですが、今日は行きつけのカフェに行ってきました。月に2,3回の贅沢です。食費を削って浮いた分をカフェ代に充てている感じです。カフェの店員さんがすごく貴重な話をシェアしてくれてそれで感動して書いているのがこのnoteです。
 詳細はあんまり詳しく書きませんが、大病を患った時の心境を詳しく聞く時間でした。そのカフェでは店員さんとお客さんも誰と誰が組み合わさってもみんな知り合いで、どこかスタジオジブリに出てきそうな世界観のカフェです。打ち明け話って、あんまり大人になるほどにしないじゃないですか。ひょんなことから店員さんが大病を患った時の率直にネガティブな心境になったことを詳しく、それはもう実感を込めて話してくれて、自分自身躁うつ病という経験があるからその時自分がどんなふうで何を考えていたか(私は急性期の症状が出た時の記憶がしっかりあります)お互いに打ち明け話をした感じで、それで思ったんです。
 つい、アイツのせいで、とか、障がい者は真に恵まれることはない、とか、こんな不幸な体に誰がした?とか、そういうこと一杯考えちゃうじゃないですか?でも今日、店員さんと話していたら、私は昔中学校の卒業アルバムに「敵は我にあり」と恩師に書いてもらったことがあったのを急に思い出したんです。
 SNSをリセットする時って、
「あーもうこのアプリを使う時間があるなら他のことがもっとできるわ!」
 みたいな苛立ちが引き金なんですけど、その引き金を引いているのは自分、つまり私自身なんだよなぁって。
 障がい、という大病についても同じことが言えて、後天的に病気になったのか先天的にそもそも病気でいたし方なくこうなったのか、卵が先か鶏が先か論のようなことを考えるけれど、私の考え方は、
「自分自身に問題がある。原因を自分自身に見いだせれば克服することも、成長することもできる」
 と思うたちです。それって今日打ち明け話でも話していたんですけど、幼いころのことを結構記憶していて3つ子の魂100までっていうみたいに、どうしようもなく自分のこういう考え方は中学生になるころには出来上がっていたようです。
 大好きな詩があります。突然ですがシェアします。

『ゲシュタルトの祈り』
 私は私のことをします。
 あなたはあなたのことをします。
 私は私、あなたはあなたです。
 私はあなたの期待に沿うために生きているのではありません。
 そしてあなたもまた、私の期待に沿うために生きているのではありません。
 私たちの心がたまたま通い合ったのなら、それは素晴らしいことです。
 通い合わなかったとしても、それは仕方のないことです。

 これは躁うつ病を患っていく体で私が19歳の時に必死に書き留めていた言葉で、ゲシュタルト療法という療法ではこの詩をひたすら読むそうです。
 結局私は双極性感情障害という重い病気を抱え込んで生きることにはなったけれど、人生のいたるところでこの詩を思い出しています。
 そして、この詩は中学時代の恩師の『敵は我にあり』という言葉にも通じるところがあるように思います。誰かのせいにしたら人は変えられないからずっと解決しない。自分のせいにしたらそれはとても辛いけれど、克服と成長のチャンスが与えられる。
 よしもとばななさんはキッチンのあとがきの中で、「克服と成長」について言い飽きるまで作家活動を続けると書いている。
 心の問題を取り扱った話しは結局はおなじところに通じていると思っていて、辛いことを思い出しすぎてこの不便な記憶力の高い体も、見方を変えれば、自分の中に原因を見出すことができればいかようにも克服と成長を敵は我にありの精神で乗り越えていける。
 今日はそんな風に思ったんです。あれもいい、これも素晴らしい、世の中万歳的なことが言いたいんじゃなくって要は、
「自分の身の回りに起きる問題は自分の中に原因がある」
 この言い方が生々しいかなと思います。鏡の法則と言ってもいいかもしれないし、ありのままの自分に素直になるといってもいいかもしれない。ただ、私にとって肝心なことは悪い出来事を人のせいにしない。これがすごく大事だなと。常に人に感謝なんてそりゃできない。亡父がよみがえれば私は何度だって殴り掛かりたい気持ちに襲われるだろうし、晩御飯がまずかったのをきっかけに人間関係をリセットしようとしちゃうような人間です。
 でもさ、この小さな自分。浅ましい小さなきっかけで人生を壊そうとしているのなら、悪い感情の芽がでたらすぐに対処できれば負のループから抜け出すきっかけが作れるんじゃないかと思う。躁うつ病を治すとかそういう大きなことは難しいしきっと一生できないけれど、晩御飯は常にマズくはない程度に美味しい料理を作れるようにはなれる。その小さな芽を植えたり摘む行為が、不幸の底へ下りる階段を慎重に降りれるようになる工夫のような気がする。

 何を書いているのか全く分からなくなってきました(笑)
 でもまぁ気楽に。人生の真理に触れたがって混乱が始まる自分の体質あるあるの現象が今おきています(笑)

 コジコジの精神で行こうね。
 ・・・何を言ってるんだろう私……。

 今日も朗(ほが)らかに一日を過ごしまっしょい。
 今夜も良い夢を。
 明日も穏やかでありますように。

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