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あの帰り道を覚えている 小説

私の話

 会社の事務所を出るとすぐに小部屋があり、その小部屋は説教部屋と呼ばれていた。季節感を感じ取ることができない暗い蛍光灯のその小部屋で上司と部下が何かを話していれば、「あー、あの子やめるのかもね」と、事務所の中ではうわさが広がっていくような仕組みだ。
 今日その小部屋にいたのは私の直属の上司と、最近社内恋愛をしていると噂が立っている女の子だった。くだらねー、と私は思う。事務所であんなことを言っていた、こんなところを見たと、うわさ話で盛り上がる職員のひそひそ声を素通りしながら。
 きっと彼女は確かに仕事をやめるんだろう。私は帰りの電車の中でぼんやり考えていた。悩み事をただ受け止めているだけにしては上司の顔が厳しく、暗かった。でもなぁ・・・
 いつか休憩室で彼女が私に、その恋をしている職員の話をしていた。
「頭では奥さんがいる人を好きになってもどうしようもないって理解してる。でもさ、でもさ、好きな気持ちってそんなに簡単に消せるものなんですか?」
 ここで、恋愛とは、という話ができるほど私は年上だけど恋愛経験が豊富じゃない。私は言ってしまったのだ。
「恋ができるっていいなぁ、そこまで人を好きになる気持ちって私はよくわかんないけど、きっと素晴らしいものなんだと思う」
と。
 綺麗な箱に彼女の打ち明け話を押し込んで、私はアナタは素晴らしいという言葉で臭いものにフタをしたのだ。
 結局、一番ひどい人は私かもしれない。同僚たちの顔を思い浮かべながら、電車を降りた後の帰り道をぽつぽつ照らす街灯は妙に寂しい感じがした。
 晩ごはんはまぁいいかな・・・家に帰っても暗い気持ちは晴れず、私はベッドへともぐりこんでいた。

彼女の話

 先輩は特に仕事ができる人ではない。どちらかといえばミスの多い人だ。入社して3年目の私の周りは、定着率の良いこの職場では先輩ばかりに囲まれている。昔から妙なところが私にはあって、スポーツができたり勉強ができたり、そういう周りと比べて優秀な異性に惹かれることは全くなかった。むしろ中学生の時に好きになった初恋の男の子は、バスケットボールが怖くて逃げ回っていた。逃げていることで空いた空間に飛び込んだ格好になり、パスを回されてボールを跳ね返してしまい、その場の非難の目の中でニヤニヤ笑っていた男の子だった。あの子のどこが好きだったかといえば、私はきっと、彼は周りの非難の目は真っ当なことだと考えていて、ここで謝るようなことをすれば雰囲気が悪くなることを経験で察しているのだ・・・そんな感じで彼の心の中を察していくような優越感が心に湧いてくるからだった。
 私の性格は良い方ではないだろう。けれど職場で好きになった先輩はやっぱりミスが多いだけあって、誰かがミスをしたときに決して責めず、そっと笑顔を作っているのだった。年齢を重ねるにつれ、私はそういう人の姿勢に憧れを抱くようになっていた。そう、先輩は私の憧れなのだ。
 いつか休憩室でその好きな先輩と一緒になった。嬉しくて、好きですと言いたくなっていたけれど、私は女性だし、先輩も女性だからきっと戸惑うだろうなと思い、男の上司の顔を思い浮かべながら異性に恋をする悩みとして先輩に相談をしていたのだった。
 先輩は言った。
「恋ができるっていいなぁ、そこまで人を好きになる気持ちって私はよくわかんないけど、きっと素晴らしいものなんだと思う」
 と。あぁ、またかと私は思った。きっと私が好きになっていく人々は男性だったとしても、女性でも愛してくれる心の広い人であっても、遠巻きに私という人間を恋愛対象として見ていないということを伝えてくるような、本当は性格がよくない人なのだろうと。
 終礼が迫る夕方に、私と先輩の上司である男に説教部屋に呼ばれた。上司に私は激しく誤解をされていたようだったけれど、上司が「あの男性職員が困っている」という内容のことを言っていたので、もう職場にいられないだろうと感じていた私は、その話に便乗して、困らせてしまうので退職しますと上司に伝えた。きっと、あの先輩のことを私は嫌な人だと考えてしまうようになるだろう。日々が辛くなる前に、自分の生活やあり方を正すことよりも、自分の心をまだマシな状態に保ったまま私は職場を去ろうと誓い、そう思ったら涙があふれて止まらなかったのだった。

 上司の話

 うちの職場は暗黙のルールで社内恋愛が禁止だ。突然結婚したというのはありだけど、堂々と交際を宣言したことで社内の人間関係がドロドロになってしまうのを防ぐためだと俺は思う。
 最近、若手職員を好きになった入社3年目の女の子が好きなのは、きっと同じポジションで働く俺の嫁だろうと思う。結婚して3か月もたたないからどちらかがその内に異動になるのを待つような時間で、たくさんのサインがその女の子から嫁に向かって送られていた。きっと俺は入社3年目の彼女を退職させる。周りの雰囲気が悪くなるぐらい彼女のことが好きな男性職員がおり、分かりづらい嫌がらせが好都合に働いていた。社内の噂話はその男性職員のことを彼女が好きで嫌がらせをしていると、全く反対の構図を描いて噂をしているようだった。
 みんなさ、どうしてなんだよ。仕事の人間関係なんて波風立たない程度にテキトーに楽しくやっていられればいいじゃないか?噂されると苦しくならない?噂話が好きな奴が、今度は次の噂話のターゲットになるんだよ・・・と俺は偉そうなことを考えていた。
 夕方、やっぱり彼女は俺の読み通り今回の誤解されている男性職員とのうわさ話に便乗して、退職を決めたのだった。
 会社はこれでうまく回ってくれるだろう。彼女が損な役回りを買って出たことで。こんなことが俺の仕事なんだろうかと、なんだか胸糞が悪かった。
 帰り道はだいぶ遅い時間だった。初めて秋の訪れを、匂いで感じた夜だった。

 その春の一日の彼女

 私は男の人が好きなのだろうか?女の人でも恋ができるのだろうか?そんな日々の考え事がどうでもよくなるぐらい、夜の花見は楽しいものだった。  
 あんまり話したこともない人だったのに、同じビールを買ってきたというだけで盛り上がっている人がいる。ひたすらご飯を食べ続け自分のことを残飯処理班と言っておどけている人がいる。別に、何がどうだから楽しいとかってわけじゃない。でも入社3年目のこの花見は大学生活に経験することができなかった、私がサークル活動抱いていたイメージを完璧に表現していた。
 音楽もかけていないのに、広い公園のライトアップが、キラキラ輝いてにぎやかだった。私はきっと先輩のことが好きだ。今も先輩のフリース生地のジャンバーの腕に抱きつきたくて仕方がない。でも、同時にこの職場のみんなも大好きだ。入社した時からずっと。
 きっと、誰が好きだとか、誰が誰を嫌いとか、そんなのとても小さな話で、だからきっと、私の悩み何てどうでもいいことだと思う。
 些細なことが時々、人生を大きく動かす苦しさを私は知っている。
 でも、今日はなんだか幸せだ。
 
 花見を終えて私は先輩と、先輩の好きな人であろう上司と3人で暗い帰り道を歩いていた。時間よ止まれ。そう心から願った帰り道だった。

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