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サヨナラ時計(小説)

 小夜子はもう一度夜の空を眺めました。空には電線ごしに薄い雲が星たちを隠しています。泣きたい気持ちで3月末の春の温かさに、悲しさを感じています。私たちは誰かに出会えば別れる日へのカウントダウンだということを知っています。けれど、アナタに会いたいという願いを捨てては生きていけない。人は一人ではいられないのだと、スマートフォンの着信を気にしながら、小夜子はコンビニで買ったホットコーヒーで手にじんわり汗をかきながら、誰もいない自分の部屋へと帰っていきます。
 今日は別れの日でした。派遣の契約が切れた、いつかこの日がくることはとっくの昔に小夜子は知っていました。2年、たった、2年。けれど、何回も繰り返してきた別れの歴史の中で、今日の別れは、小夜子にとって人生の底に冷たい風が吹くような、とても大切な記憶になるという予感があったのでした。今、一人ぼっちの部屋で小夜子はクレパスで絵をかいています。神田川という曲の中で登場するクレパスを使った絵を派遣で出会ったみんなは下手な絵だと笑いながら、貧乏くさくはないけどね、とさりげなくほめてくれたことを思い出しながら。
「ま、誰に見せるわけでもないけどね」
 そうつぶやきながら小夜子は出来上がった風景画を裏返して電気を消します。夜は相変わらず、静かに今日という一日を進行させて、明日の日差しを迎え入れる準備をしていました。小夜子のクレパス画の裏には、誰にも言えないような、読まれたらすぐに捨てようと決めているポエムのような文章を書いていました。

 どこかで私たちは必ずすれ違う。
 こんな絵を描いて私どうするんだろう。
 光、と呼んでいる私のモチーフを誰が理解してくれるというのだろう?
 影のように、と小さく描いた花のイラストをどれだけの人が気づいてくれるのだろう?
 さよならばかりが人生だ、と寺山修司は言った。
 そうなんだろうと思うけれど続きの文章を思い出せない。
 私は派遣のみんなと会えて、同僚として友人として、今の職場を愛していた。離れることが分かっていたから私は楽しかったのだろうか?
 私の人生は、どこかで大きく狂ってしまった。
 大切に思う人々が離れて何年もたつことにいつしか疲れ、いつしか慣れた気持ちになって、私は人を大事にしたい自分の気持ちに嘘をつくようになった。
 愛されたい人に愛されて、その時間が終わらないかのように続くことなど、私の人生に起こりようもないのだと。
 今からでは遅い。
 大切な人は去ったのだ…

 表を向ければその絵はカラフルな虹色の空に木がそびえ、影絵のような二人の男女が手をつないでいる、とてもありきたりな、どこにでもありそうな絵に、小夜子は涙をこぼしていたのでした。

 このnoteを書いている僕は、3年後の小夜子の恋人です。今が幸せかどうかなんてアナタに関係ないし、僕らはひそかに、この日々を愛していくことを望んでいるので、今、小夜子が元気にしていることだけ伝えておきます。僕は小夜子の嘘をつくようになった、と、正直に自分の気持ちを表現できるところを愛している。
 別れはいつも唐突に、わかっていたって訪れる。そして、そのサヨナラに意味なんて全くない時さえある。人生の歯車は誰だっていつか欠けて、完璧さなどほど遠いかのように思うだろう。しかし、何年か経って、小夜子の書いた心象風景に僕が恋をしたように、今はただ、辛く厳しい現実にうちひしがれているのだとしても、いつか、いつか、完璧にすべての歯車がかみ合う日々をどうしても僕らは望んでいる。嫉妬をしても、悔しくとも。
 いけない、玄関で小夜子が帰ってきた音がしたので、このnoteを閉じます。多分今日は中華だと思う。
 あなたの日々が、穏やかに、明るくなっていくことを僕は静かに願っています。

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