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酒と泪と生きる希望と②

39歳で初めて倒れたとき、出会った心療内科の先生が評判の名医で、処方された薬もよく合って、僕はみるみる回復していった。夜も眠られるようになり、運動不足にならないように毎日のように裏山を歩き回り、シャワーを浴びて昼寝をする。それまでより健康的な生活だった。
山道を歩いていると、道端に咲いている花がとても美しく見える。沈むゆく夕陽の赤さが目に沁みる。「ああ、世界は何て美しいんだ。こんなことすっかり忘れていたな」と思い、今回の休憩は神様のくれた休みだと思った。
そのうち子どもが生まれ、その誕生祝いにわざわざ校長が祝い物を届けに来てくれた。同じ学年の先生方も何回かお見舞いに来てくれた。僕はそのことを面倒くさいとは思わなかった。精神疾患のある人間には下手に関わらない方がいい、という通念が本人にも周りにもまだなかった時代だったからかもしれない。


3ヶ月で仕事に復帰し、その後は通院治療と服薬で4年間働くことができた。そのときに担当した学年は「これでもか」というくらい、日々問題行動が頻発した。正直「もう転勤したい」と思ったこともあるが、もちろん叶わず、もう覚悟を固めるしかないと保護者の前で「この子たちを卒業式で泣かせます!」と宣言したら、肩の力がすーっと抜けたのを覚えている。
そんなことで現実が変わるはずもなく、指導が入らない生徒も多々いたが、反対にクラスには慕ってくれる生徒も多く、中学校3年生の文化祭ではクラスみんなでダンスステージを企画した。最後にほぼ全員で踊った「YOSAKOIソーラン」はリズムが体育館に響き渡り、堂々たる迫力でアンコールの声もかかった。幕が下りた瞬間の生徒たちの歓声が忘れられない。「やりきった」という感じだった。
そして僕は、それなりの充実感をもって、新しい職場に転勤していった。

転勤した学校では副担任からスタート。学級担任ができないことにちょっと寂しさを感じたが、まあ何事も経験と思い副担任の仕事に精を出していた。
学年はとても落ち着いていて、真っ直ぐ並ぶし、教師の話はよく聞くし。とある先生の「この学年はいいわよ〜」という言葉が印象に残った。
だが5月頃から少しずつ生徒たちの雰囲気が変わり始めた。特定の生徒への執拗な嫌がらせが少しずつ広がり始め、ちょっと目を離すと集団でちょかいを出している。常に教師が廊下に張り付かなくてはいけない状況になってきた。
そのうち授業も崩れ始め、教師に悪態をついたり、あからさまに反抗的な行動をとる生徒たちが複数現れてきた。こうなるともう雪崩のように全てが崩れていく。どの教師の指導も入らない状態になった。
年度途中で学年主任は病気休暇になり、年度末の人事では残りの担任も全員持ち上がりを拒否した。つまり、新年度は誰も残らない。こんなことは僕の教師生活でも初めてだった。上に書いたとてつもなく荒れた学年でも、担任は全員1年から3年まで持ち上がった。僕は無責任な教師たちに正直腹が立った。

子どもたちと教師の信頼関係が壊れている中で、僕達副担任まで逃げ出すわけにはいかない。僕は担任としてこの学年を持ち上がることを決意した。
僕が一番に考えたことは「子どもたちとの人間関係を繋げ直す」ということだ。そのためにも、子どもたちの思いを大切にして、そこから始めていくことにした。
(続く)


精神疾患の話がほとんど出てこず、教育のエピソードになっているが、ここを通過しないと、なぜ僕がその後長く精神疾患に苦しむことになるのか理解されにくいと思う。
今振り返れば、このとき辺りから、僕は徐々に罠にはまりつつあったと思う。

*学校や個人が特定されないように、事実には変更を加えて書いています。


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