夢のあり方
引用の文章は、この部分だけ切り取ると、いかにも作家の詩情が発揮された美しい表現なのであるが、これには前段がある。妻の不貞を夢に見てやり切れぬと言っている男に対して、妻への処罰の方法はどうするかという問題に答えて、空を見よと述べているのである。
「夢なのだから気にすることはない」とアドバイスしないのが、様々な文学的実験を行ったこの作家らしい態度である。論理的に考えれば、星や月は実際にあるし、それを見ている我々人間も現実として存在しているはずである。星や月が浮かぶ場所を夜空と定義したのだから、空だけが無いというのはごまかしに聞こえる。したがって、この文章には空を介して現実と夢を強引に接続させただけの詭弁ではないかという反論がありうるだろう。しかしそれを可能にするのが文学精神というものだ。空が無いもので空と夢が同じ質なら、夢も無いものである。それでは夢とはいったいなんぞや。
ところで、昨晩以下のような夢を見た。あんまり明晰な夢なので、目覚めてすぐ内容を書きとっておいた。
現実味の高い夢を見ると、寝覚めが悪い時がある。というより、睡眠環境が悪い場合に夢を見ることが多い。普段これほど明晰な夢を見ないので、眠りがよほど浅かったものとみえる。あるいは萎縮した脳が、自らを鍛えるために様々な記憶を取り出してきて混濁させようと試みたのかもしれない。
夢と現実の区別がつかないことを多くの人は嫌がる。曖昧なものは気持ちがよくないのであり、それはわかる。美しい夢ばかりなら良いが、不愉快な夢を見れば、冒頭で引用した男のごとく、現実でないのに悩む場合もあるかもしれない。悪感情に基づく虚妄に取り憑かれて現実と妄想の狭間がわからなくなり、他人を傷つける暴挙を犯す者もいる。そうするとやはり人は、白か黒か、分けなければ気が済まないようになる。我々はきっぱりと決断することが潔く美しいと感じる傾向にある。他方で、二分法的な思考は、自分と相容れないものを切り捨てる考え方と容易に接続するので、人に苦しみを与えることになりかねないとも思う。
曖昧なものといえば、プロレスラーが夢の中に出て来たことは興味深い。日本におけるプロレスとは私が思うに、虚構と現実をあえて曖昧にすることで成り立ってきたエンターテイメントである。もっとも現在は観客がよく教育されてきたこともあり、米国のそれのように虚構性を暗黙の前提として成り立っている。プロレスを受け入れない人にはいくつかの種類があるが、まずそもそも格闘技に類するものを暴力的として嫌うか、興味がないというケースがほとんどである。残りの、競技としての格闘技とプロレスの違いはどことなく分かる人でも、プロレスの前提とする虚構性を胡散臭く感じたり、子供だましに思う人が一定数存在すると思われる。競技なのか見世物なのか、はっきりしてほしいという人には向かないものだろう。
個人的には、残して済ませられるのであれば、できるだけ曖昧な領域は人生の妙味として残したほうが楽しいと感じている。白黒をはっきりさせるのは常に物事を0か1かで判断するデジタル的な思考であって、どこか窮屈な感じがする。わかりやすいのは利点だが、複雑な味を出すのが難しい。人生において判断や決断が必要な場面は多々あるが、人間が決断をしなければならない理由は、そもそも世の中が白黒はっきりつかないようにできているからである。
夢は、実在するものでもしないものでも構わない。荒唐無稽な夢の世界が現実になれば楽しいし、現実でなければまた見たい。人間が生きるということ自体が奇跡的なことであるならば、それもひとつの夢である。人間の夢は壮大であってもささやかであってもいい。現実という美酒や毒酒を浴びて酩酊しながら、夢か現かわからぬままに、もがいて続いてゆくのが人生だと思っている。
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