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夢のあり方

空を見ると、夜なれば星と月。星と月とを見ていれば、総てが夢だと思うだろう。空は無いもの。夢は空と同じ質のものに相違ない。

横光利一「夢もろもろ」

 引用の文章は、この部分だけ切り取ると、いかにも作家の詩情が発揮された美しい表現なのであるが、これには前段がある。妻の不貞を夢に見てやり切れぬと言っている男に対して、妻への処罰の方法はどうするかという問題に答えて、空を見よと述べているのである。

 「夢なのだから気にすることはない」とアドバイスしないのが、様々な文学的実験を行ったこの作家らしい態度である。論理的に考えれば、星や月は実際にあるし、それを見ている我々人間も現実として存在しているはずである。星や月が浮かぶ場所を夜空と定義したのだから、空だけが無いというのはごまかしに聞こえる。したがって、この文章には空を介して現実と夢を強引に接続させただけの詭弁ではないかという反論がありうるだろう。しかしそれを可能にするのが文学精神というものだ。空が無いもので空と夢が同じ質なら、夢も無いものである。それでは夢とはいったいなんぞや。

 ところで、昨晩以下のような夢を見た。あんまり明晰な夢なので、目覚めてすぐ内容を書きとっておいた。

 昼下がりになんらかの用事を済ませた自分は、軽食を食べたくなり、喫茶店に立ち寄って紅茶とアップルパイを頼んだ。店内には数人先客がいるが、比較的空いている様子。ふと見れば、近くの席には職場の同僚がいる。その同僚のことは嫌いではないが、一人になりたい気分なので面倒だなと思いつつ、とりあえずカウンターまで注文をしに行く。
 注文を終えて待っていると、カフェオレとフォカッチャのようなセットが運ばれてきた。まずコーヒーの飲めない自分は、カフェオレは頼まない。フォカッチャはイタリア料理のパンみたいなものだが、三つひとまとめで袋詰めにされていた。イートインなのに袋入りなのか、しかしこれはどう見てもアップルパイじゃないなと思いながら、袋を開けてひと口齧ってしまう。そうして味見して、明らかにアップルパイと違うことが確認できたので、これは注文と違うので取り替えて欲しいとカウンターまで言いに行く。さすがに現実世界では齧る前に聞く程度のモラルはあると思うが、夢の自分は図々しくて卑しいようだ。
 カウンターの向こうの厨房には、あるお笑い芸人にそっくりな店員さんがいて、ああまた来たよと聞えよがしに言っている。何が「また」なのか訳が分からないが、自分はこの夢世界では毎度クレームをつけている客という設定なのだろうか。しかし、その夢の自分は余裕があって、そういわれても特に腹の立つ感じもなく、また来ましたよー、とニヤニヤしながら声をかけた。こちらに聞こえるように皮肉を言ったにもかかわらず、その店員はバツが悪そうにしている。
 席に戻ると突然店内が混雑しているのに気付いた。びっしり席が埋まったので必然的に相席になり、右隣には別の同僚が増えていて、いつの間にか先に来ていた同僚を交えて職場の雑談をしている。私と隣り合った左の席には大量の肉料理を頼んでいる大男がいて、私のテーブル領域まで料理がはみ出してきている。小さな喫茶店なのにこんな肉料理があったかしらと思いながらその男を横目に見ると、闘魂という言葉で象徴される老舗団体を長く支えてきたベテランのプロレスラーだった。そして、右にいた同僚は消えていて、王道という言葉で形容された団体に所属していたベテランプロレスラーに替わっている。
 私の左で大量の肉を食べていたプロレスラーは、野外の試合で落下すると川に流される、というキワモノ的なギミックを施した試合をしたらしい。上空から撮影された、濁流に流される自分の姿をじっとスマホで見ていた。自分もその奇妙な試合を一緒に見ながら、あなたもとうとうこんな色物めいた試合をするようになったんですかと冷やかしてみたが、少し相手の表情が翳ったのを見て、でもこういうの好きですよと慌てて取り繕った。
 そんなことをしている間、アップルパイはいつまでも提供されてこない。俺何しに来たんだっけと思い始めたところで目が覚めた。

 現実味の高い夢を見ると、寝覚めが悪い時がある。というより、睡眠環境が悪い場合に夢を見ることが多い。普段これほど明晰な夢を見ないので、眠りがよほど浅かったものとみえる。あるいは萎縮した脳が、自らを鍛えるために様々な記憶を取り出してきて混濁させようと試みたのかもしれない。
 夢と現実の区別がつかないことを多くの人は嫌がる。曖昧なものは気持ちがよくないのであり、それはわかる。美しい夢ばかりなら良いが、不愉快な夢を見れば、冒頭で引用した男のごとく、現実でないのに悩む場合もあるかもしれない。悪感情に基づく虚妄に取り憑かれて現実と妄想の狭間がわからなくなり、他人を傷つける暴挙を犯す者もいる。そうするとやはり人は、白か黒か、分けなければ気が済まないようになる。我々はきっぱりと決断することが潔く美しいと感じる傾向にある。他方で、二分法的な思考は、自分と相容れないものを切り捨てる考え方と容易に接続するので、人に苦しみを与えることになりかねないとも思う。

 曖昧なものといえば、プロレスラーが夢の中に出て来たことは興味深い。日本におけるプロレスとは私が思うに、虚構と現実をあえて曖昧にすることで成り立ってきたエンターテイメントである。もっとも現在は観客がよく教育されてきたこともあり、米国のそれのように虚構性を暗黙の前提として成り立っている。プロレスを受け入れない人にはいくつかの種類があるが、まずそもそも格闘技に類するものを暴力的として嫌うか、興味がないというケースがほとんどである。残りの、競技としての格闘技とプロレスの違いはどことなく分かる人でも、プロレスの前提とする虚構性を胡散臭く感じたり、子供だましに思う人が一定数存在すると思われる。競技なのか見世物なのか、はっきりしてほしいという人には向かないものだろう。

 個人的には、残して済ませられるのであれば、できるだけ曖昧な領域は人生の妙味として残したほうが楽しいと感じている。白黒をはっきりさせるのは常に物事を0か1かで判断するデジタル的な思考であって、どこか窮屈な感じがする。わかりやすいのは利点だが、複雑な味を出すのが難しい。人生において判断や決断が必要な場面は多々あるが、人間が決断をしなければならない理由は、そもそも世の中が白黒はっきりつかないようにできているからである。
 夢は、実在するものでもしないものでも構わない。荒唐無稽な夢の世界が現実になれば楽しいし、現実でなければまた見たい。人間が生きるということ自体が奇跡的なことであるならば、それもひとつの夢である。人間の夢は壮大であってもささやかであってもいい。現実という美酒や毒酒を浴びて酩酊しながら、夢か現かわからぬままに、もがいて続いてゆくのが人生だと思っている。






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