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白くてふわふわ

 大気圏の最下層、そのどこかで、春風から生まれたこころ暖かな雲が暮らしていた。ふわふわと思うまま空に浮かび、気ままに大気をどこまでも泳ぐ。途方もない自由があり、それは同時に途方もない孤独でもあった。

 ある日いたずらに低層を流れていると、地上で西陽に照らされながら、子猫が捨てられているのを見つけた。雲はしばらくそこらを漂い、陽が落ちる頃まで悩み考えて、誰にも連れて行かれないその子をふわりと拾った。夕闇にまぎれて、雲の秘密の行いに地上の誰も気付かなかった。そうして雲は、白くてふわふわの子猫を育てはじめたのだった。白い雲の背に乗せられた白い子猫は、やがて雲を親と思い、当然自分も雲と思い込んだ。

 それから雲と白猫は、ふわふわコロコロと空に浮かんでしあわせに漂った。毎朝お陽さまに「おはよう」と、毎晩お月さまには「おやすみ」と、あいさつをする。緑深い山肌を滑ったり、凪いだ湖面を撫でてみたり、時には雨雲になりながら荒れる海を覗き込んだ。どんどんと風に流されて、気付けば一日のうちに季節をまたいでしまうような日もあった。
 白猫はすくすくと育ち、雲の背の上から下界を注意深く観察するのが日課になっていた。そして一番のお気に入りは、ふわふわの雲の背の上でゴロゴロニャンとすること。けれど、そんな白猫を見守りながら雲はやがて考えざるを得なかった。もはや子猫とは呼べないくらい大きくなってしまったこの子を、もう、地上に還さなくてはならないと。雲の上で翔んで跳ねてはしゃぎまわるものだから、近頃はたびたび地上へ落ちてしまいそうになっていたのだ。

 空がいつもより広くいつにも増しておだやかな日、あの日と同じ夕刻に、意を決して雲は白猫に打ち明けた。
「おまえは拾い子で雲じゃあないんだ。白猫よ、もう地上へお還り。」
 言いながら雲は泣いた。涙は雨になって地上へ降り注ぎ、白猫はじっとそれを見つめた。小首を傾げ、ついでにひと舐めしたその瞬間。
 白猫はふわふわの雲に姿を変え、((ニャア))と少しくぐもった声で鳴いた。雲の隣に並んで浮かび、もくもくと自在に身体をふくらます、猫雲となったのだ。

 雲は今度は嬉しくて泣いた。泣いて泣いて泣き止まない雲の眼から、際限なく涙が流れ落ち、その涙の雨もやはりまた地上へと降り注いでいく。突然の夕立にあわてる地上の者たちを、空の上から猫雲が見ていた。

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