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風船

現在この駅構内で最も元気なものは、コンコース脇パン屋のショーウインドウ内にいる、あのピカピカのあんぱんである。

誇らしげに輝く彼の幸せを目の端で願い、足早に階段を降りる。満員電車の圧力を背中に感じながら、人の少ない下り方面を向いてホームに立つ。誰かに少しばかり押し出されて死んでしまわぬよう、身体の重心を気持ち後ろにする。そんなことは知らず皆、鼻先や後頭部すれすれを通り過ぎてゆく。

遠くに電車の姿が見えた。背後に沢山いた人々はいつのまにか対岸の電車に詰め込まれ終わっていた。滑り込んできた電車に乗り込む。下りと言えど通勤時間のため座席の八割は埋まっていた。空席を見つけ、身体をねじ込む。両脇の生き物達の二の腕と自分の二の腕が触れ、それらが呼吸のたびに膨らんだり縮んだりするのを感じた。嫌悪しながらも目を閉じると、意識は慣れたように消えてゆく。安心は乏しいが、警戒心は薄汚い布に包まれ底の方にある。右隣の生き物の呼吸がしばらく止まった後、喉がなる音と共に大きく膨らんだ。風船のようだ。飛び立つことのない重い重い風船がたくさん、横並びで金属の箱に入って水平に移動している。

電車が何度目かの減速する。慣らされた日常のリズムにより、降りる駅が近づくと勝手に意識が這い上ってきた。無理やり電源を引き抜かれた機械のような心持ちがする。丸まった背中を伸ばし、頭を窓に預けたとき、対向の電車が見計らったかのように通り過ぎ後頭部を強めに小突いた。

外の景色が固定される。立ち上がってドアの方に体を向けると、先ほどまで自分の右に位置していた場所が目に入る。

そこにあるのは、大柄の成人男性の形を成した風船である。近づいて頭部を掴む。彼は腕を組み、目をつぶったまま動かない。私が降りようと降りまいと、背後で電車の扉は閉じた。空いている方の手で日差しを遮断していたカーテンを上げ、窓の取手を掴んで下に降ろす。電車が動き出し外気が流れ込み目が乾いた。握りしめるように瞬きをしてから風船の両肩を掴みなおし、持ち上げて窓に押し込む。

風船はたいして飛ぶこともなく、向かってきた対向の電車と今乗っている電車の間ですり潰され、破裂した。空気の抜けた殻は舞い上がりパンタグラフにからまりかけたが、空へと逃れた。


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