見出し画像

二元性を超える

アセンションの終局的な形態は、二元性を超えることである。
わたしたちがここにいる理由も、二元性を超えるためである。
つまり、(ほかならぬ今、この地上で与えられた)人生とは、二元性を超えることである。

まずは二元性を超えたところに自分がいることを悟ることである。
そこからだ。

それ以外は一切しなくていい。
(いまのあなたやわたしのそのままでいい)

それは「目的」ではない。
スタートラインだ。
そもそもアセンションに「目的」はない。

脱出でもない
上昇でもない
統合でもない
収束でもない
光でもない
愛でもない
平和でもない

始めからそうだからだ。





本来の自分に立ち返る
汝自身を知れ
二元性の迷妄に気づく・・・

様々な謂いがあるだろうが、
どれも全体をあらわしていない。
(空念仏だ)

仏教の高度な形態である禅はそれを目指しているが、その公案にはしかし、人知という枠がある。
(人の知恵は翻弄するだけで終わる)

知識や模倣は、早晩茶道その他同様、閑人や趣味人、金持ちの手慰みと堕す。(何事も無常だから固定できない)

宗教とは後世の”パリサイ人”が「学問」にしたために堕落し、初期の精神が埋もれ去ってしまった精神の形骸をいう。(本来の精神に教理はない)

人は、難解で神秘なもの
或いは崇高で荘厳なものを崇め、
崇めることでますます二元性の殻を強固にする。
(人はまた率先して騙されることを好む)





何もする必要はない。
何も学ぶ必要もない。

何かを築いたり、何かをすることは、すべて二元性の発端になる。
(何事かを成すことにはすべて終わりが来る。しかしここで扱っている問題には終わりも、従って始めもないからだ)

Aを示すことは同時にA’を示している。
右足を踏み出すことはすでに左足を予想しているし、
吸った息を吐きださないものはいない。
上を仰ぐものは常に下である。
上に上ることは、下を踏み台にする。
賢人は愚人を下敷きにし、
支配者は大衆がなくては無意味だ。

5次元(絶対界→)は3次元(相対界=二元性の世界)を包含する。〔下図〕
5次元は3次元がなくても存在するが、3次元は絶対に5次元がなくては存在できない。
それは母と子のような関係だ。
子がなくても母(母性)は存在するが、
母がなくては子は存在できない。

よって、二元性(3次元)のみの世界というものは存在し得ない。

3次元はそれ自体に5次元が浸潤している。
つまり、3次元を認めたことは、すでに5次元を予測している。
3次元の組成は5次元であり、
陰陽(相対界)は一つ(絶対界)である。
(量子重力理論での「超ひも理論」がその展望)

あらゆる不幸・災禍の根源は、
「二元性(3次元)のみの世界」というありもしない妄想の世界を生きているからだ。
(それは本来つながっている神と自己の糸=ひも=が断ち切られてしまっている。我=他者というつながりを絶つものは存在しない抜け殻であり、みずからすすんでそのようにみずからを具現化している。)

「我が、我が」「我よし、我よし」の世界はこうして出来上がる。

そして、その地獄世界こそ、ほぼ大多数の現代人が絡めとられた唯物論という世界観である。

日本において縄文の世から連綿と続いた「森羅万象に魂が宿る」といった世界観が、いかに科学的にも物理的にも正しいのかは自明のことだ〔下図〕(土器に刻まれたスパイラルを見よ!)。



宇宙のねじれ構造=右回りの求心性スパイラルは物質界を創造し、中心のポータル(ブラックホール・ホワイトホール=出入り口)で反転、左回りの遠心性スパイラルで無限世界に向かうトロイダルな動き。それは理論ではなく人間存在が実際的に行っている創造そのものの姿である。(※左図のスパイラルは、実際は3Dトーラス状に回転(求心)・反転(遠心)をしながら循環している)





二元性の世界。
幻想の世界。
3次元世界。
相対の世界。

それは必ず争い、いざこざ、矛盾を巻き起こす。
しかし、その互いに補い合う仕組みを知る者には争いはなく、和がある。
というよりも、それこそが「和」である。
そう言いたいのであれば、それは「愛」である。

一元世界(絶対)へ回帰する?
それは、本来異常なことだ。
なぜなら、わたしたち絶対的な存在に、そもそも回帰する場などどこにもないからだ。

わたしたちが絶対者であることが真実であるならば、
いまわたしたちがいる世界と言っているものはどうだ?
ありえない世界。
幻想の世界。
無常の世界。
うたかたの世界。

「この世は学校(学びの場)である」
の言葉の奥底には諦念がある。
つまるところ、この世には苦難・艱難・試練・悲哀・不公平・忍従がつきものだという認識をもとにした鍛錬が「学び」である。
子供たちはそんなものを笑っている。

その「学び」を持ってあの世で何とする?
むしろ、正直にあえてこう言おう。
「この世はenouph!(もう結構、たくさんだ!)」





人は神(絶対者)であること
だからあえて神をたてる(宗教)ことは、二者を分離する行為(工作)であること。
それは精神分裂である。
外界のどこかに「神」を見る者、見ようとする者にとって、永遠に神は遠くにある。

また、CGSやSIの物理的な単位に固執する物理学や科学に生命の本質は見えてこない(そうであるものがたちまち別なものに変わる=それは現象・結果しか見えない)。

これこそが、二元性の罠だ。

次の言葉は、それをうまくいい得ているだろう。

人間には魂がない。
なぜなら人間は魂そのものだからだ。

残念ながら、この言葉は人間(地球人)のそれではない。
異星人が語った言葉だ(人間でこの言葉を解するものは百万人に一人くらいのものだろう=唯物主義者には不明である)。






そうして、わたしたちは記憶しておこう。

わたしたちは本来不死であり、小宇宙を創造するほどの力がある

ことを。
そして、

闇の勢力が最も恐れる真相は、実にこのことであることを。
この真相を封じ込めない限り、闇は存在できない。
(封じ込めてきたからこそ存在できた)

このあきれるくらいに荒唐無稽に映る「真理」―そのようにわたしたちの意識は故意にしぼんだ風船のようにさせられてきた。
万人が万人、十重二十重とえはたえに嘘を刷り込まされてきたのだ。
とりわけ、自分は非力で何もできない存在だという嘘を。
(意識はそのようになる。だから本当にそうなってしまった)

そうして、わたしたちは思い出そう。
わたしたちは何ものか(闇・悪)と戦うためにここにいない。
(戦いは罠である)
二元性から解放されるためにこの世にやってきた。
(いやいや、「解放」という言葉すら要らない)

二元性の幻影を知り、
知ることでそれは一元という親元に回帰する。

わたしたちは輪廻転生・カルマの車輪をたった今永久に断ち切るためにここにいる。
輪廻転生・カルマは二元世界にのみ──つまり「生と死」という二元性の幻影をもとに張り巡らされた罠である。
それは、罠という罠の中でも最大で壮大なものである。
(「罠」=字義通り、民衆を罒(網=刑罰)にかける) 





二元性の世界に浸っているものに
二元性は見えない。
それは、彼が五感で生きているからだ。
そうするように刷り込まれてきたからだ。

あらゆる想像や、主義主張、学問、思想、信念、教条、はすべて二元性(4次元)に基づくものだ。

この二元性の世界のどこをどう探しても、畳をひっくり返しても、引き出しの底を探っても、決してあなたの求めている「愛」や「平和」や「幸福」といった宝物は見つからない。

見つかるのは、すべて「賞味期限付き」のその代替品でしかない。

これらのことは、単に青い色を「青」と言っているに過ぎないことだが、もちろんそれすらも気づかない。

もっともシンプルで身近で、だからこそ命同様大事なことなのに、それが見えない。
見えても、それは「とるに足りないこと」だと脇に置いたり、見て見ないふりをする。

そうして、遠くの世界ばかりを覗こうとする。
それは、自分自身をかえって遠くの世界に追いやることになる。

最も単純で簡単なことが「難解」になっている。
そうして、学者や権威、哲学者、宣教師、宗教家、スピリチュアルリスト、時の人、流行りの思想、技術、テクニック、ハウツー、人気者、お告げ、啓示、予言、学術体系、○○論といった受け売りの複雑な二元性に信を置く。

信を置かなくてはならないのはただ一つ自身であるのに。
情報ではない。
自分を介してこそはじめて偉大な思想や神霊や宇宙とつながるのだから。





しかし、二元性が一元世界に包含されている絶対的な背景は揺るがない〔図〕
まもなく、二元性は一元世界に吸収され、一元の世界になるだろう。一切の痕跡も残さず二元性は消滅する。

長い間二元世界で苦しんできた西欧社会では、それを「闇から光りへの移行」と言い、「アセンション」と言い、「救済」と言い、また「光の勝利」というだろう。

一方、長い間二元性を恥なこと、修正すべきこととして、それを「道徳」とし、「人倫(倫理)」とし、「家訓」としてきた東洋(ポピュラーな例では侍の精神、武士道など=道のためには自害すら厭わない精神)では、このわずか百年足らずでその規範がみごとに壊滅した。だから彼らにとってのアセンションとは、まさに懐かしい母親と再会するような出来事である。





アセンションを死ぬことだという人がいる。
アセンションにかかわらず、一部では死ぬことですべて解決できると考える人がいる。
死んだらアセンションするのか?
救われるのか?
できない。
救われない。

死ぬことは、単に4次元世界への移行だからだ。
今のわたしたちと同じである。
持ち越しである。

そのことは、あなた同様、これを読む多くの霊たちが頷いている。

だから、この問題は生あるもの(肉体次元でも霊の次元でも)にとって、等しく立ちはだかる問題だ。

アセンションは、肉体を持つもの持たないものにとって同様の光(未来)である。





アセンションには、個人と外界(実は宇宙銀河系単位)の双方がある。
外の世界でわたしたちが、日々、日を追うごとに見させられる狂気と錯乱と悪の跋扈は、いよいよ二元世界の極が臨界地点に差し掛かったことを象徴している。
それは逃げ場を失った悪魔の咆哮であり、「前代未聞のラスボス」の断末魔の光景である。

それが浮かび上がってきた。
あぶりだされてきた。

これまで、悪の所業を前にして、わたしたちは、「まるで悪魔のような」とか「地獄のような」という形容で語ってきた。
しかし、今目の前にしているものは、その「形容」の裏に隠れていた「本物」である。

それを物理学的な用語では「亜量子異常」と言うそうだが、何であれ、アセンションの前に、宇宙はその塵芥を大掃除にかかっている。
わたしはそう実感している。

一方ではもはや集団単位(マス)ではなく、個々の単位で、それら終末の様相を「ただ滝つぼにむかって流れ落ちる濁流」のように見遣る人たちも増え始めている。

光を灯しそれを維持するか否かは、わたしたち個々の自由意志にかかっている。


MEMO

(他の投稿もそうですが)この投稿は、単なる自身の個人的なメモです。
文章を書くということは、脳内でまだ混とんとしている曖昧さを明快にする効果があります。そうした目的でこれを書いています。

自身を顧みてもそうですが、みんなそれぞれその年齢や、環境、その他外部的な要因で関心事項は違って当然です。
同じように見えても違って当然です。
しかし、たぶん最終的には同じ場所、自他の区別のない一体感にあふれた世界に行き着くのではないでしょうか?
わたしはそれを「最後に訪れるフィールド」と称しています。
そこに行かない限りあらゆる問題は解決しないからです。

なぜなら、自他ともに何らかの「問題」があったにせよ、単にそれを消し去ったり、追い払ったりしても、またさらに厄介な「次なる問題」が出てくるだけだからです。
ちょうど対症療法のようなものです。
それをいやというほど見てきました。

この中で、一かけらでもあなたの琴線に届くものがあれば幸いです。

東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。