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「胃腸の悪いものは、なるべく硬いものを食え!」

何か超人的な能力を開拓するために、特別な修行をする。
「第三の目」を開眼するために、メディテーションやヨガの修行をする。
それはそれでケッコーなことだと思う。

「超人」とはだれもが心の奥底で憧憬するテーマ。

僕はこう考える。
人間は「超人」から凡人へと退化してきたのだと。
だから「もう少しマシなものにならんものか?」と葛藤し、このマトリクスに取り込まれた「人間」という地平線を脱出しようと試みる。
その視野の先には「超人」という本来の自己がある。

とかなんとか・・・。

冥王星がみずがめ座のエリアに入り、いよいよ始まりましたね。
カウントダウンです。
アセンションとか5次元シフトとか、もしかしてあなたはそれが内的な(観念的な)問題だとお考えでしょうか?
それとも、それは個人個人の”とらえ方”の問題とお考えでしょうか?
いやいやそんなものはスピ狂の世迷言とお考えでしょうか?

残念ながら違うようです。
それは、物理的な問題であり、少なくとも地球規模の問題です。
実はそうでなくては生き残れない逼迫した現実が控えています。
そこには、トランプや習近平やプーチンがどうしたということを遥かに超えた宇宙的地政学があります。
ここにきて、来るべき「イベント」「ソーラーフラッシュ」を前に、ビッグテックら超富裕層は、それにおびえおののき、島を買い占めたり、バンカー(地下終末シェルター)を建設したり、生き残り策に余念がないようです。

大金持ちには大金持ちなりに
闇ならば闇なりに
清貧に甘んじるものには、そのように
やってもらいましょう。

こちらの岸からあちらの岸まで渡るのに、
豪華客船やロケットまで調達できるものにはそのように
やってもらいましょう。

その船が沈没し、ロケットが墜落する光景を横目に、
僕らは手漕ぎのカヌーでゆっくりと・・。
「慌てる乞食はもらいが少ない」
とかなんとか唱えながら、
やっていきましょう。

若い時分から僕は、「病を治したり、悟りを得たりするメソッドに、特別な措置や高額な投資は不要である」という持論を持っています。
なぜなら、それでもし実現可能であったとしても、それは金持ちや頭のいいエリートのみ適用できるものであり、貧乏人や学校すらまともに出ていないものは見放すことになるからです。

幸福は万人に開かれたもののはずです。

だから、自分にとっては「クスリ」すら、その趣旨に反する代物です。
あくまでも、「丸腰」「無手勝流」が本意です。
出来ればなるべく人為がないような、
普通のことなのに、そこに今までとはガラッと違った世界が開けるような・・。

メディテーションやヨガなどは、確かにその範疇です。
でも、そこにはまだ「修行」のにおいがします。
もっと日常生活の中で、特段変わったことをせずとも万人がその気であれば、平和で穏やかな心境に至れる汎用的な方法はないものでしょうか?


鵜呑みにすることと咀嚼ということ

表題は、「反対医者」の異名を持つ食養医学の祖・石塚左玄の言。
あなた同様、僕も初めてそれを聞いたときドキッとした。
「どこに、胃腸が悪いものに硬いものを勧める医者がいるものか!」と。
どんな家庭医学書を開いても、そこには「なるべく柔らかい消化の良いものを・・・」と、紋切り型のアドバイスしか見当たらない。

しかしこれは正解である。
(ということは、一般論は間違いである。あなたはそれを”鵜呑み”にしていませんか?)

彼は食養で見落としがちな「咀嚼」という非常に大事な要素について語っているのである。
石塚の後継である桜沢如一も、「ご飯はよく噛んで噛んで唾液と混ぜて液体になるまで飲み込むな!」とか、食養指導では語っていた。
彼の食箋(食事指導)では一口につき百回、二百回噛む事とよく出てくる。
(これだけで云々できませんが、心当たりのある方は試されてください)

セルロースで覆われる玄米が白米よりも固いことはご存じでしょうが、その玄米を徹底的に噛み砕いたものと、白米をパクパクと流し込むように食べることとでは、そこに雲泥の差がある。

せんべいをよく噛みもしないで飲み込むものはいない。
玄米も同様だが、それを大量にたいして咀嚼もせずに食べると当然弊害が出るし、「玄米で体を壊した」などという声は、大抵これである。
「何を食べて何を食べない」ではなく「食べ方」だ。
よく噛んで食べると、驚くほど少量で満腹感が得られる。

現代生活による弊害は数えきれないくらいあるが、その中でも最大の弊害は、ゆっくりと噛んで食べるような食生活が失われたことかもしれない。
(これは、「考える人」を育てることでもあるのだから)

至福の時間は「ごはん」の時間のはず

当然それには時間がかかる。
まともな食事には、最低でも一時間は要するだろう。
晩酌には長時間要しても、正しい食事にはそう時間をかけない。
朝食や昼食は、まさに「掻っ込むかっこむ」という表現がピッタリなご時世である。

これらは、すべて「咀嚼そしゃく」による美味、羽化登仙うかとうせん三昧境さんまいきょうの境地を知る機会すら与えられない貧相な現代社会のなせる業ともいえなくもない。

噛めば噛むほど美味くなるもの不味くなるもの

「良い食べ物」が心身ともに健やかになる食べ物(時に、病を癒す)としよう。
「あまり良くない食べ物」を心身に悪影響を及ぼす(時に、病を引き起こす)としよう。

僕の経験則からいうと、大概の「良い食べ物」は、第一印象(よく噛まないで食べること)は、不味い。たいして美味くない。よく言って「素朴」な味である。
同様に「あまり良くない食べ物」は、その逆でいわゆる「口舌を喜ばす」類のそれである。

ここでの「良い、悪い」の判断は感覚(味覚)という非常に低レベルのそれだ。
で、それを本当の意味での「良い、悪い」の判断にまで持っていくにはどーするか?

それが、よく噛むことだ。
噛んで噛んでさらに噛むことだ。

江戸時代に長屋で活躍した「箱膳」 一汁一菜の簡
素な美しさがある=「日本文化の醤油を知る」より

すると、不思議や不思議、たいして美味くないと思っていた食べ物に甘露の味を発見する。
あれほどうまいと思っていた食べ物が、無味乾燥なそれに変わるではないか?

実際、玄米をはじめとした穀物(が体に悪いという説は論外)、雑穀、豆類の第一印象は地味なそれである。
一方、さまざまなスィーツやアイスクリーム、ハンバーグやステーキ、出汁の効いたラーメン、マグロ等々、あなたのお好きなもろもろの食べ物の第一印象は非常に華やかで陶酔的かつ蠱惑的である。

では、それらをよく咀嚼してみてください。
後者の類は、よく噛むことすらできない、というか噛みたくない代物ではないですか?
ケーキをよく噛んで食べる様を見たことがない。
肉や魚をよく噛んでいつまでももぐもぐやっている光景を見かけない。

一方前者は・・・?(もう語るまでもありません。あなたはそこにすごい発見をするでしょう)

「耳でものを食う」ということ

さて、この「よく噛む」という行為は、食べ物に限ったことではない。
それは、「聞いたり見たり」する行為にも当てはまる。

何かの情報がある。
それをそのまま無批判に取り入れる。
つまり、鵜呑みにしてそれを疑わない。
よく見かける行為だ。

ここで、蒸し返すように例の”予防接種”の受け入れの有無を持ち出す気はないが、ことと次第によっては、こうした姿勢は命取りになることもある。

”柔らかく””消化のしやすい””滋養のある”食べ物は、実は「よく噛む」という(病を治すための)必須条件を無視した机上の栄養学であり、医学である。
カロリー計算された”薄味の病人食”などが一体どういうものなのかは言うまでもないだろう。

一見耳触りの良いこうした「処方箋」は、家庭医学の次元のみならず、政治や宗教から、ひいては身近な日常生活にまでばらまかれている。

桜沢如一が「武蔵野の聖者」と仰いでいた宗教家に高田集蔵という方がおられた。
その著作の中に『耳で物を喰べる話』という小編がある。

内容は、私たちが平素食事を取り入れている以上に、「目」や「耳」でじつは「ものを食べている」。それが人間を左右するし、人格をも形成している、という面白いご意見だ。

聞く耳を持たないのは単に生理学的な性向である

「食べる」という行為は口からだけではない。
耳からも目からも鼻からも、それは全身で味わい、見極める行為だ。

一つの箴言を
「味わう」とか
「噛みしめる」とか、
「咀嚼する」とか、
時には僕ら人間にはそんな器官がないにも関わらず、「反芻はんすうする」という表現まで目にするし、使うことがある。

もちろん、その言葉の内容がそうした行為に足るものであるからだが、これは、あらゆる角度からその物事に光を当て、その「正体」を身をもって確かめるという行為だ。

それこそ「考える」ということだ。
そのように僕は思う。

よく噛むことで自然に健康になる

さて、「よく噛むこと」は、食事に関して、または健康に関してのベースになる所作である。
なぜなら、(健康になる食事を正しい食事とするならば)そのことが、自ずとほぼすべての方法を規定するからです。

というのも、
そうすることによって、まずは、驚くほど少食になる。
自然に穀類や野菜を中心とした食事を好むようになり、副食(お菜)は、少量の沢庵などで満足するようになる。
肉や魚は要求しなくなる。
インスタントや加工食品を「不味い」と感じ、受け入れたくなくなる(舌に強烈な違和感が残る)。
当然瘦せるが、心身はいたって健やかになる。
とても人様を出し抜いたり、争ったりするような気持にすらならなくなる。
慢性病などが快癒する。
物事をよく考えるタイプの人間になる。

いいことずくめではないか?
とあなたは思うかもしれない。
そう、いいことずくめである。

強いて言えば、デメリットはみんなと歩調が合わないというぐらいか?

何度か書いたように、僕も特に若い時分にそんな食生活をしたものである。
すると、不思議なもので、この「よく噛む」という癖は、文字通り身をもってのものだから、なかなか抜けない。
食事をしていないときにすら「噛んでいる」節がある。
友人らと外食をしても、自分だけ最後までかかる。
他人の倍の時間を要すものだから、少なくとも現代社会の時流には合わない(から悪いわけではないですよ)。

鵜呑みは3次元、咀嚼は5次元

しかし、「よく噛まないで鵜呑みにする」ことが果たして悪いことなのか?
というと、これがオケージョンによりけりである。

「街中華」とか「大衆食堂」などに寄ると、あなたも時折目にするかもしれない。
いわゆる「ガテン系」(死語?)というか、ニッカーボッカーを履いたとび職風情の肉体労働者の一群が席を占めていることがある。
注意して見ると、彼らは好んで「大盛」を短時間で平らげる胃の腑を持っている。

「おーい、あんちゃん、鉄棒上にあげんぞー、受け取れや」
「ちょっと待ってください。もっと効率よく、かつ安全な方法を検討中で~す」
「・・・・・・」

現場に迷いは不要

命に係わる仕事に、「考える」ことは下手をすると命取りにもなりかねない。
だからこの場合、彼らの食事方法は「正しい」。

彼らの名誉のために付言すれば、僕も人一倍「大食」で、そのような食事法が嫌いではない。というより、好きだ。
(最近でこそ歳のせいでなくなったが、いつも「大盛」を注文しては、後で後悔するほどの卑しい口だ)

まとめ

現代社会を「おかしい」と感じる人、そうとらえる人は大勢いる。
ところがどっこい、ちっともおかしくない、「何が?」という人もこれまた大勢いる(単に人や事象を見て「おかしい」というだけで、その原因や背景を決して探らない)。
しかし、いずれの方々の中にも「自分がおかしいのでは?」ととらえるものは非常に少ない。
すなわち、「おかしくなってしまった、おかしくさせられた自分」である。
たとえそれに気づいたものがあっても、大概は外部にその要因を探る。

いつも思うのだが、この肉体を通じた3次元世界を飛び越して(無視して)5次元がどーの、13次元ではこーだとか、「外界」をうんぬんする方々がほとんどである(いわゆる「すっぽ抜け」というやつである)。
それらのお話、ナラティブが、なんだか空々しい「他人事」のように受け取られてしまうのは、正直多くが3次元での妄想だからである。
それらは、YouTubeのサムネで目を引いて、ハイ終わり、といった次元と変わらない。

多次元、高次元が存在しているのは自明のことだから分かるにせよ、それらは僕らのいる3次元とつながっている。
むしろ、なぜ僕らはこの低層の3次元に押し込められ、押しとどめられているのだろうか?
まずは、そこから考えなくてはならないのではないか?

先ほど、肉体労働者の例を挙げたが、実際、なんでも(考えずに、咀嚼せずに)鵜呑みにしないとやっていけないのは、ひとり彼らのみではない。
ブルーカラー、ホワイトカラー、自営業者に限らず、すべての人々がそうしなくては生きていけない構造がある。

あなたが、この世の支配者・・でなければどこかの企業の社長だったとしよう。

あなたは、あなたの指令を即飲み込んで、そこになんの私感も挟まずに即実行してくれる人々(社員)と、
あなたの指令にすぐさま従わずに、時には別なアイディアを提供してくれるような人々(社員)と、
一体、どちらを”採用”するだろうか?
ちょっと、気の利いた会社ならばいかにも後者を望んでいるようなフリはするだろうが、その実態は旧態依然としたものであることは、昨今の大手自動車会社の不祥事などを見れば火を見るよりも明らかである。
アジェンダは変えられないからだ。

これ以上言わずともお分かりのように、社会の支配者層は、自分たちに従順なシープルを望んでいる。
つまり、盲目的で、無批判で、信じやすい民こそ彼らの理想である。
出来れば、知っていて奴隷のように振舞うのではなく、ハナから無目的に従う方が理にかなっている。
だからAIなどという都合のいい代物まで登場した。

なんでも鵜呑みにして考えない人間。
それを形成することは、すなわち僕らを3次元に閉じ込めておくことに他ならない。

時間から時間。
時給なんぼ。
わずかな休憩時間。
保険制度。
福利厚生。
育児休暇。
育児手当。
産休。
昇給。
給料据え置き。
減給。
懲戒処分。
住宅ローン。
・・・何が「得」で、何が「損」か。

では、この自分から、広がる輪のように3次元を次第に超えてゆく方法はないものか?

それが、まさかのただ噛むこと。噛んで噛んでさらに噛むことである。
当然、あなたは今の職場で「使われる」ポジションは抜け出すことでしょう。
転職したり、ご自分で何らかの事業を始めるかもしれない。
もうあなたは以前のあなたではない。
あなたは、現代社会から見れば「脅威」であり、レジスタンスでもある。
構わない。
そのようにしてあなたは超えてゆく。
何を?
どこから?

3次元を、
この社会からである。

行き着く先は、あなたにもだれにも分からない。
5次元と言ったり、13次元と言ったり、
そんなものは単にそれに当てはめた「形容」または仮のロジックにすぎず、体験したもの以外だれもその世界を表現することはできない。

そして、あなたは確実に体験することだろう。




東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。