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治せば治らず治さなければ治る

はじめに

目線は一斉に世界情勢やさまざまな世論を呼び込むようなトピックに向いている。
ウクライナ・ロシア問題から世界中で起きている火災や、強制的なワクチン接種やら芸能プロダクションの非人道的な行状やらと、大忙し。
どれ一つ突いても、世界中が震撼するようなネタにあふれている。
そして、どれもが奇異で、例の特有の香ばしいにおいがする。
しかし手繰り寄せてみればそれら火の粉の出所は一緒なのだから、ますます分かりやすい時代になったものである。

そうした問題は、むしろニュースになる時点で、闇が少しずつあぶりだされているわけで、これまた見えない存在だが、その影に光側の健闘があることも忘れてはならない。

火の粉が目の前に飛んできてもいまだ目の覚めないお隣さんは置いておこう。
今や、火の粉の正体を切りつける時代に入った。
しかし、外部世界に向けて、大上段に構える剣士には、隙ができるものである。
私のやりたいことは、世界の闇を暴くことではない。
木乃伊ミイラ取りが木乃伊にならないように、私たちそのものに忍び寄る闇に気づくことだ。
同時に、闇を暴こうとされている皆さんの足元を照らし、多少なりとも彼らの攻撃から身を守る一助になれればと考える。

外界の事象は内部にも現れる。
遠い世界は身近な世界と一つ。
闇は空を覆う暗雲だけではない。
私たちの周囲や内部にも巣くっている。
目線を外部にばかり向けているうちに、自分自身がその前に斃れてしまったのでは元も子もない。

今回は、身近な「病」の問題について書く。
実にこの世界でも執拗な闇の攻撃が繰り広げられてきたし、今もそうだからである。
私たちがいかに闇側に洗脳され、それによる誤った認識がいかに病の元凶になっているのか、いかにしてそこから脱出すればよいのかを考察してみた。


私たちは病気になるために生まれてきたのではない。
しかし、また病気を治すために生きているのではない。

ところが、そんな負のスパイラルの中で、下手をすると一生をもがき苦しむような人がいる。

それも少数ではない。
実に驚くべき数の「患者」が巷にあふれかえっている。
いまさらであるが、大病院などの待合室の光景を見ると、圧巻というか、呆れて言葉を失う。
なぜそのような事態に至ったのか。
しかも、なぜ、さも平然と日常茶飯事のようにそうした異常事態が日々繰り広げられているのか?
なぜ依然としてそうあらねばならないのか?

この問題と長年取り組んでいるはずの医療が、それらを治すどころか、かえって新種の病を増やすことに一役買っているかのように見えるのはなぜなのか?

それは、われわれ人類にとって逃れようのない試練なのか?

もしそれが不可避なものであったにせよ、そんなものときっぱりと縁を切って、あっけなく快癒させ、特別な療法なしに、その場で居ながらにして健康を奪回する手立てはないものか?

拙い考察で恐縮だが、これはその一つの回答である。



その病気はどこから来たのか?



「病」とは何か?
その原因云々はひとまず置いておこう。
まずは単純に私やあなたにとっての「病」のことである。

外部的には私はそれに対する明確な答えをまだ得ていない。
その代わり、私の中ではあっけないほどに自得できる答えは出ている。

それは、心身の不調である。
または、不調や不快感の慢性化、それである。
何とも言葉遊びのようで拍子抜けされたかと思うが、正直なところ、それ以外に説明はないし、また要らない。
それ以上でも以下でもないからだ。
注意されたいのは、この、それ以上でも以下でもないという点。
病に講釈は要らないという考え方である。

具合が悪けりゃ、不愉快である。面白くない。
肉体的にはこれといった症状はなくても、心理的、精神的になんだかすっきりしない、淀んでいるというような状態すらも、それは私の中では「病」である。
それは仕事など外部的な要因がある「悩み事」なども一緒。
結局は自分の問題にたち戻るからである。


病を細分化しても無意味

大概は「病」と気づく以前に、必ず体のどこかに軽度の不調というものは現れているものだ。
だるい、鈍痛がある、くしゃみや咳・・・。
しかし、それを知ってか知らずに無視する。
となると、面白いもので体は、あるいはまったく別な部位に、今度はもう少し高度な(厄介な)病を出現させる。
これが先ほど述べた「不調の慢性化」の進行形である。
放っておくと、これが難病等重篤なものになる。

とはまあ、これが私の、さながら原始人のような、あるいは犬猫のような認識である。
あくまでも幼稚な、生理的、本能的、直観的な認識であり、分析的な解釈は無用である。

つまり、ある症状が「○○病」「○○症」「○○症候群」だとわかったにせよ、私の中ではたいして重要なことではない。
なぜならどんな病も同根だからだ。
しかも、一切は自分の問題である(もちろん風邪やウイルスに感染することも)。

他人や他所の問題ならば、私にはなにもできない。
助言や介助、まして慰めなどが無用・無効であることは痛いほどわかっているからだ。


病んでいるのがさも当たり前のような社会

一切は自らに

たとえばこれを読まれているあなたは、私の知らないあなたである。
あなたが、もし自身や身内のものが「病」で苦しまれていたとしても、私には当然何もできない。
しかし、あなたという個人が、一切は自身の問題であると気づかれたとすれば、あなたはご自分を自身の手で救うことが出来るだろう。
そして、あなたは同様の次第であなた以外の第三者の、心ある方々を救うことが出来る。

ちなみに、一切は自らに由るという認識を「自由」と言う。
自分が世界を創ったのであれば、その世界に不要なものをDeleteするのは、いともたやすいことではないか?
私たちは早くそうした大悟に至りたいものである。
そのものに不可能はないからだ。

闇側は、それを最も恐れる。
あなたご自身のハイヤーセルフ(真我)の登場を恐れる。
そのエネルギー(一般に言う自然治癒力)の発露を恐れる。
その力は神仏はもとより、悪魔がどうにかできるものではないからだ。
だから、医療の世界に潜り込み、医師に特権を与え、今日の半強制的な監獄のような制度を作ったのだ。
言うまでもなく、そこに自己と向き合う機会はない。


病名は病そのものではない

さらに、集合意識に組み込まれてしまった不可解な一例を挙げよう。
それは病を「病名」でもってくくって、こと足りたと思う一事である。
これは普通にありがちな見落としである。

たとえば胃が重たい、いつも気になっているとする。
当然気分も暗くすぐれない。
医者でそれが「胃潰瘍」だと診断される。
しかし、それがこの場合の「病」そのものではないことに注意されたい。
それは、そうした症状を総称した「病名」だからだ。


個々の名が刻まれたそれはcupである

人は病名を知ることで安心するという。

「私は○○なんだって」
「おれは○○の初期症状だから気を付けないと」

なんだか自分の病気はそれだけで、それを集中的に治せばいいのだといわんばかりだが、そうした考え方はおおむね医者に教わったわけである。
当然、医者ではそれに特化した処方をする。
お分かりのように多くの医師にとって、症状の軽減や消滅が治療の目的・手段であって、その症状のよって来る源に対してははなはだおぼつかない対応をする。

つまり原因が不明なのに、いや、だからこそ単に症状をかき消そうとしている事例がままある。

部分のみを顕微鏡的な眼で詮索し、全体を見失っている。
個=全体観の喪失である。
部分だけが病むということはない。
何かの病は、どこか他所も含めて体全体がそのような傾向にあることを示している(例えば肝臓が悪い人は、胃腸はじめ腎臓、心臓その他もろもろの臓器などがすでに悪い)。
その意味では、病とは病症を指すのではない。
病症とは、単に部分的な症状や性質にすぎないからだ。

宇宙の星々、銀河が繋がっているように、人の体はすべて繋がっている。
だから、本来「病」とは、病症を含む一個の心身全体を指す。
なにがしかの病を患ったその人間の体全体がその温床であり、さらにもとをただせば、その人間のものの考え方、判断力、精神に原因がある。

個が全体を成す。
全体がない個というものは存在しない。
個があくまでも個を主張して譲らない、Aが同時にBであることを認めないものは、この宇宙には存在しないし、できない。

ありていに言えば二元論である。
これが精神の歪みの正体だ。
だから、精神を正せば病は治る。
言い換えれば、精神を正さなくては完治しない。

自分こそが自分自身の医師である


歪んだ精神を正すための”神”からの警告・警鐘が病症である。
ゆえに、その病症のみをもみ消すことは、精神の歪みを自ら見えなくさせることに等しい。
それは、人と神(ソース)とのつながりを遮断しようとする闇側の謀略であることが見抜けなくてはならない。

あらゆる病の元凶である精神の歪み(曇り)を正すには、二通りの道があると私は思う。

霊的な指導と肉体的な指導。

前者は高次元からの、後者は三次元的なアプローチである。
霊的指導者には、霊媒師や修験者、ヒーラー、超能力者などがいるし、肉体的なものともなると、食餌療法や、ファスティング、ホメオパシー、指圧や鍼灸などの民間療法などがある。
どちらでも結構だと思う。

ただ、それらによってたとえ病が癒えたとしても、いずれもあなた自身があなたの判断で行うものではないから、そこに依存してしまうという弊害が生じる。
これでは、現行の医療制度とさほど変わらないことになってしまう。

必要なのはあなた自身の考えであり、あなた自身の精神だ。
つまり、あなた自身があなたの医師でなくてはならないのではないだろうか?


「食」によって作られる血液の質が重要

病の発生を生物学的に言えば、何らかの細胞に異常をきたす以前に、それを構成する血液に異常異変があるということだ。
むしろそちらが病の温床ではないか?

そのおおもとになる赤血球は主に腸で作られる(腸造血説=千島学説)。
赤血球を形成する土台になるものは、その元になるもの(食物)から成るわけだ。
だから、元の元は食に起因している。
つまり、食を正せば病も治る。
実に明快ではないか?


食物が血肉に・・・血液が肉(体細胞)に、肉が血液に可逆的に分化する

以上のことから、あなたはこうした疑問を抱くかもしれない。

「食によって病を癒すことはともかく、それによって精神性を正す、あるいは高めることができるのか?」

それはできるという以上に、もっと積極的に、私は食を正すことなしに、あらゆる精神修養による効果は期待できない、と言いたい。
(※「精神性を高める」とは、よく耳にする言葉だが、実際は精神を高めることはできないし、不要である。なぜなら精神は初めから無限大の高みまでつながっているものだから、むしろその曇りを払うという表現が正解だ。)

これは、私のみならず、あなたご自身も経験されたことがおありかと思う。
普段肉食をし、飲酒をし、満腹状態のものに、精神統一だとか座禅だとか瞑想を勧めても、多くはやらないし、やってもうまくいかない。

精神と肉体──もちろん両者は一つのものである。
一つのものの別の相(両極)であるから、
精神を正すには肉体を正さなくてはならないし、
肉体を治すには精神をまず治さなくてはならない。

三次元の事象は二元性に依っているわけだから、すべてこのような矛盾、二律背反を伴う。
しかし、二元性そのものが、いわば幻惑的なレトリックでしかないと認識できれば、両者は一元(同じもの)であると喝破かっぱできるだろう。
そして両者をつなぐ一つの鍵が、食事にあることは小学生にも理解できることだ。

だから、口回りのヘルペスから、背中の湿疹から、白内障から、水虫から、貧血から、胃がんから何からすべての病は食に起因する。
あるいは長年それによって形作られた体質や傾向による。
細菌だのウイルスだのは、単に媒介者であって、直接の原因ではない。
虫の死骸にアリが群がる如くである。
その証拠に、同じ環境下で発病しないものもいる。

血液の質が重要なのだ。
難病・奇病を、「原因不明」とかで見放したりするのは、その病の因子に限っては血液によって運ばれずに、突然変異的にどこかから降って湧いたとでも言っているのに等しい。
体細胞は、血液や栄養素、あるいはそのもとになる食事によって形成されないのか?

もう一つの原因

あなたが、この見方に戸惑われるのであれば、百歩譲って仮にもしそれが真実だとしたら・・・と仮定されたうえでお考えになっていただきたい。

先に難病・奇病を挙げたが、私自身も初めて聞くような複雑な病名を最近多く耳にする。
なんでも何千人、何万人に一人の珍しい病だとか。
可笑しいのが、そうした珍しい病が(珍しいのに)増えているということだ。

これをあなたはどう判断するだろう。
その疾患を持っている個人は、多く普通の(つまり大方の人と変わらない)食生活を送っている。

当然、様々な病は経験することは予想できたとしても、なぜに「難病・奇病」なのか? という問題。

これはあくまでも私の推論だが、それは医原病である。
疾患を持つものは、普通に折に触れて医者にかかっているだろう。
まずその際の処方箋、投薬、継続服用している薬などを疑ってみる必要がある。

単なるポリープががんに仕立て上げられるような、「まさか、いくらなんでも」の世界が医療利権の裏にあることをあなたは知らなくてはならない(船瀬俊介さんの医療関連の著書などはそれをえぐっている)。

これ以外にも、職業病や公害など外部的な要因で病を引き起こすこともあるが、それすらも「食」の質や量いかんによって、より快方にむかったり悪化したりする。

すべてはつながっている。
すべては同根である。
あの病気は○○が原因で、この病気は△△が原因、さらにその病気は原因不明という見立てそのものが、分裂症的にすぎるし、むしろ患者はそれによって攪乱させられるだけだ。

一部の例外を除いて病は、ほぼすべてが食(口から取り入れた飲食物)に原因がある。

食は単なる栄養ではない。大地の生命エネルギーの継承だ

自分には原因がない、悪くない、被害者だ。


さて、それでは病にかかった場合どうするか?
である。

ここが最大の問題になる。
なぜなら、ほとんどの方々は、病を外部に起因すると考え、その病にアタック(攻撃)をかけようとするからだ。

だから薬を飲む、医者に診てもらうことが当然と考える。
これも、慣習化された集合意識・集団催眠の一例である。
しかも、ほぼ条件反射的ではなかろうか?

それでうまくいけばよしとする。
しかし、場合によっては、病巣を切除したり、焼き切ったり、ひどいのは劇薬や糜爛剤びらんざいですら服用する(仮に病が架空のもの、空想の産物であるならば空恐ろしい話である)。
それでも思わしくない場合は、世界中に最高の名医はいないものか、と探しまくる。

ここでまず問題がある。
そもそも自らの病をなぜ第三者に診てもらい、何らかの手段で治してもらおうとするのか?

それは、病というものが不可抗力的に生じた一種の敵性であり、しかも自らでは治すことが出来ない、治す必要がない、自らは被害者だという思想である。「何とかしてくれ!」という居直りである。

それはまるで他人事ではないか?
他山の石、どこ吹く風。

実はここで、私たちはすでに致命的な過ちを犯している。
というのも、みすみす自らを治そうとし、また治すことが出来る自然治癒力(実は、何ものもそれに抗えないほどの強烈な生命エネルギー)を減殺しているからだ。

これでは、どんどん体質は劣弱なものになってゆくほかない。


なぜ、自然にまかせないのか?

どなたも子供時分、風邪などを引くと、母親に「暖かくして寝てなさい」と言われた記憶があるものだろう。
熱があればリンゴなどを食べたくらいで、水枕をして寝ていた記憶がある。
これなどは、病に対して抵抗せず、自らで治すというやり方だ。

先に書いたように、今ではほとんどの人が、ただ治るのを待つ、自然に任せるということをしなくなった。

薬や医師への依存が当たり前になった。
その時点で、自らの判断力は不要である。

医者に言われるがまま、身近な患者が、さまざまな種類の薬を、得々と大きな袋から取り出して服用している様を見ると、なんとも言えない脱力感に見舞われる。

「えーと、この薬は副作用で胃を荒らすらしいから、これはそれを止める胃薬」

たくさんの薬、即効性のある薬、手術の上手な先生、〇〇科の権威、TVでも紹介された健康法、みんなが言ってるから、やってるから、知人がこれでよくなったそうだから・・・いわずと、そこに自分の判断力は微塵もない。それはロボットである。

むしろファンタジーである


反省がない代わりに依存する

これら大多数の病人の特徴を一言で言おう。
絶対に反省をしないということだ。
すでに患っている病ではない。
そのものの考え方こそ、すでに十分に病人である。

素直に考えてみよう。
病になったら、あなたはどうするか?
あなたは「なぜこのようなことになったのだろう」
と反省をすることだろう。
反省をするものは、薬を飲んだり、注射を打ったりは決してしない。
むしろ、あらゆる人為、賢しらを捨て去るだろう。
少なくとももっと侘しい心境であるはずだ。
内なる声に従って、まず食事を摂らないだろう。
それは本能だからだ。
なぜなら、大方の病気は食べすぎにその原因があるからである。


食わない、摂らない、切らない=百薬を凌駕する自然治癒力はそこに発動する。

ここに、もう一つの奇妙な、そして興味深い事例がある。

それは、病を治そうとする行為である。
ずいぶんとおかしなことを言っているように聞こえるかと思うが、平たくいうと、ここでの「治す」という行為は、対症療法を指す。
既に書いたように、今日の医療がしかし、そのどれが対症療法に当たらないというのだろうか?
しかし、医師は当然のごとくただ薬を処方し、そして患者も有難くそれを受け取る。

病が生じることを前提にしている医療の場に、病が消えることは絶対にない。

莫大な医薬などの利益が大病院のバックボーンになっているのだから、あなたにお馴染みのその医師がいったい何者であるかは、ここに記すまでもないだろう。

一方で、ごくまれなことであるが、なるべく薬を勧めず、しかも日用品や化粧品などの害毒を指摘したり、食事などの注意をするような奇特な医師もいる。あなたがもし師事するのであれば、そういう先生だろう。
(もっとも、昭和中期ころまではそんな先生はざらにいた。厳しくおっかない質の医者が多かったものだが、それは病に対する叱責であった。残念ながら、そうした医師はもはや絶滅したかのようだ。代わりに、営業マンの様に愛想よく、ろくな診療もせず、ただ薬をわたすような者たちが取って代わった。)


あれもこれも取り入れて消費するエゴイズム

現代社会において、常に何かを多く摂り入れ、それを消費しようと考えるのが一般的になってしまった。
他人より多くの富、多くの知識、多くの情報、多くの栄養剤、多くの健康食品、多くの資格・・・。

多ければ多いほど良い。

それが社会通念になってしまった。

身体に必要なものは実はほんのわずかで事足りる

偏差値や内申書という、実に陰険なシステムを子供時分から教育の場で潜り抜けてきた頭脳には、「より多く」が正義であり、またそうなくてはレールから脱線する、といったあんばいだ。
つまり、そうなるように誘導されてきたからだ。

だからそれらの人々の心底には恐怖と不安がある。
恐怖と不安こそが行動のもとになっているからだ。
なぜそうなのか?
完全に神(ソース)と分離させられてしまったからだ。
だから「自分(人間)とはそのままでは非力なものだから、多くの鎧で身を守らなくてはならない」と考える。

鎧を取っ払え!
全裸で病と対峙しよう!

人間とは、私たちが認識している以上の何十何百何万倍の能力があるんだ。
なぜなら、個は全体だから。
被造者は創造者だからだ。


何もしない医学

無為自然。
血肉の元の飲食を慎む。
大切だからこそ食べない。
あるいは小食小飲にする。
自然の実りを少量食う。
宇宙──銀河系──太陽──大地へと連綿と伝播されたエネルギーを摂取する。

多くの食物を摂らないで、正しい食物をごく少量摂る。
これこそが、(単純すぎて誰しも看過するようなこの一事こそ)人間革命であり、変身の原理だ。

不思議やふしぎ。

血液と体細胞は可逆的に入れ替わる。
食事を摂らないと、腸がお休みする代わりに、血液を求めて、すでに体細胞になっている血液が、また元の様に血液に戻り始める。
体内に形成されてしまった悪い細胞が分解される。
それは、再度汚血となって排泄される。
一方で新しいきれいな血液が、正常な細胞を作る。

何という”エコロジカル”なメカニズムなことか。

健康な体を作る食物は、現代人の日常摂取している量の十分の一以下、あるいはさらに少量で事足りる。
その余剰分は、さまざまな病の餌となっている。

さあ、あなたはどうお考えになるか?

治さない、治そうとしない医学。
それは療法でも治療法でもない。

人間は完全なものであるという前提に立っているからだ。
人間とは精神だ。
三次元世界に存在する肉体ではない。

肉体は精神が操縦する受け皿だ。
それはもちろん完全ではないが、精神が肉体を統治するときそれは完全なものになる。
精神も肉体も一つになる。
それらは、宇宙の絶対者が作ったものであり、不可侵で神聖なものである。

それに全幅の信頼を寄せるのか?
あるいは、これまで通り病症という現象を攻撃したり、破壊したりすることで実は最終的に肉体そのものをを苛むさいなむ現代医療を選ぶのか?

すべてはあなたの判断・自由意志にある。

終わりに

この項で述べたことは新しい考え方でも、新しいメソッドでもありません。
断食などを含め、それはむしろ、太古から唱えられてきたことです。
わたしは、過去に何人かの方にそのやり方をお教えしたことがありますが、ほぼうまくいかなかったものです。

なぜでしょうか?
精神・ものの考え方に原因があるからで、何を食って何を食わない云々は二の次のことだからなのです。

この項は次回に続きます。
次回はそのあたりも含め、また違った角度で投稿いたします。

長文、お読みいただきありがとうございました。






東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。