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枷(かせ)【前編】

前書き

自分がそうであるからというわけでもないが「悟れない」「悟りきれない」で、そこにえも言われない余韻を残す人が好きだ。
「○○だ」と断定しつつも「ま、そういうこともあるわな」という他方の意見を汲むタイプが好きだ。
なぜなら、それが人間の本当の姿だからだ。
人間は理論や理屈で出来ていないからである。

弱みのない人間は信用できないし、
嘘をつきませんという人間はさらに信用できない。
もしそんな人物がいたとしたら、スミソニアン博物館にある偉人らの蝋人形の隣に陳列しておいてあげるとして、少なくとも、友として酒を酌み交わしたくはないやからではないか?

若いうちにはよくありがちだが、自らの信条や論旨がずれてしまうことを恐れて、自分にも他者にもかせをはめる。
当然、無理や背伸びも出てくるから、本人はつらい。
しかし大概の場合、その信条や論旨は、どこかの権威のものであったりする。
だから一層譲れなく、かたくなになる。

その「先生」なりなんなりが悪いわけではなく、その人物や思想なりを「信じている」止まりであると、時にはおおいに危険な事態さえ招く。
宗教やカルトの一側面がそうであるし、もしそれが「他山の石」風に納得されるのであれば、戦時中の軍部や、その教育のもとに一丸いちがんなってしまった・・・・・・・私たちの過去も含まれることを忘れてはならないと思う。

なんであれ、「生半可」ではなく、その師なり先生なりを受け入れつつも、場合によってはその欠点をも見れる「複眼」を持って、その考えを自分のものにしなくてはならない。
なぜ、ならないのかというと、それは、自分の好きな贔屓ひいきのタレントの「追っかけ」のようなもので、追っかけている本人がイコール好きなタレントでも目指している者でもなく、永遠に二者は結ばないからだ。

釈迦にせよ、キリストにせよ、とりわけ若い時分にやんちゃもしてないのであれば、また生まれたときから無欲であったのならば、私としては信ずるに足らない。
名探偵が、姦計に長けた犯罪者の心理を理解しているように、「できた人間」は、多くの不本意な経験を積んでいるものだ。

何者も、その欠点を認めたうえで「好き」でなくてはならない。
ちょうど、長年連れ添った夫婦のように。
(ナンカ、キレイ過ぎやしませんか?)

この項、前回の「三界に狂人住むと人の言う」から続く。


十数種の仕事の遍歴で見えてきたもの

私はこんな性格だから、十数種に及ぶ職業というより世界を覗いてきたものです(細かいのを入れると20余)。
訪問販売や飛び込みセールスもやったし、ごみ焼却場で中国人女性に混じってゴミの山と格闘したこともあります。

小さな会社ではありましたが、記者や編集者をやっていた時分には、それこそ仕事柄数えきれないくらいの(社会的には)上から下の層の方々と接し、さまざまな感慨でその人たちを見てきたわけです。

もちろん、作家や芸術家、エッセイスト、画家、陶芸家、画廊経営者、飲食店経営者、刑事、武道家、ロシアのバレエ団顧問、元大手銀行の支店長などの多士済々たしさいさいとも出会う機会もありました。

(書いていてふと思い出したのは、中には「十二単じゅうにひとえの研究家・権威」のように、「なんでそんなニッチな世界に入ったのか?」と首をかしげたくなるような謎の国文学教授もいらした=十二単はまんまリプリーの着てた「パワーローダー」並みに重い=💦 また思い出しついでに付言すれば、一番手を焼いたのが「郷土史研究家」という古老の方々。その熱き研究成果の披瀝に長時間つかまって帰してもらえない💦)

また、信じられないくらいにお堅い「ブックカフェ」をやっていた際には、そこにどーいうわけか、大学の哲学教授や造形作家、翻訳家、詩人、映画監督を志して渡英し帰国した青年、バロック音楽に該博の方、牧師、書店経営者、元中堅会社社長、元裁判官、地元媒体の社長でジャズマニア、子供時分に東京大空襲をリアルに経験した元バリバリの営業畑の江戸っ子の粋人(←ヤケに長いな)らが集まってきたものです。
(今思い返すと、よくぞそんな面々といけしゃあしゃあと渡り合ったもんだと寒心する)

こうして改めて振り返ってみて、我ながら連想するのは、江戸時代の人相診にんそうみ水野南北みずのなんぼくです。
今でいう床屋の見習い3年、銭湯の三助3年、火葬場の死体焼き3年までやって人相学を究め、「粗食・小食で運が開ける」というドエライ哲理を発見した人(私は特段何も究めていないうえ、「大食ときどき小食」くらいですので運も開けないですが、南北式の人相診は多少心得はありますヨ)。

成功者の孤独と寂寥感

まあ、そんな中で一応社会的には一角ひとかどの「人物」や、いわゆる功成り名を遂げた方々とも当然オフで話す機会があったわけですね。

「達成者の寂寥感かぁ、こんな気持ち誰もわかんねーだろーな」


若い方でこれをお読みであれば、それぞれいろいろ理想がおありかと思うのですが、私が彼らから受けた印象は、

総じて「孤独」

でした。
よく「社長業は孤独なものだ」とは耳にしますが、
どこか心に風が吹いているというか、そんな印象。

「普通の人たちとなんも変わりません」
だけでなく、

むしろ私の感慨は、人間的な面白みは我々下々の方が勝ってるかな?
というおこがましいものでした。

もちろん、中には破天荒な楽しい方もおられましたが、大概は、それこそ、新宿のおかまバーのママよりも面白くない(ていうか、らは頭の回転が速く特に面白いんですが)、ひねりのない、批判精神のない、毒のないそれでした。

もちろん、皆さんいい人なんですよ。
こんな私の話し相手(というより、私は専ら聞き役でしたが)になってくれるくらいなんですから・・・。

「では、彼らはなぜにそうなんだろう?」

と考えたわけです。
それは、「沽券こけん」です。
「社会的な地位」ですね。
それがかせになってしまっているんです。
もちろん、聡明な方々なんで、ご自分でもそれは薄々気づいているんですね。

もしかして、あなたが彼らに興味を示す以上に、かえって彼らは、我々一般人の生態(?)に興味があるんです。



「終了」の後、どうするのか?

とかく、人間は「○○のようになりたいなあ」
と考えるわけですが、
実際は「なってしまったら終了」です。

いうまでもないですが、人生、四五十年勤め上げた会社人として「終了」のわけがないですね?
生保会社のスローガンのように「人生百年時代のライフプラン」ですか?
この世の「人生設計」ですか?
あの世の「人生設計」はどーしますか?

あなたがもし、大会社の社長になるのが「目標」でしたら、首尾よくそれが達成できたとしても、そこに様々な想定外の問題が山積しています。
それを回避できても、その後はどーしますか?
スーさんのように、「釣り」で心を癒しますか?

もし、それでもいいとお思いであったとしても、

最後まで追いかけてくるのが

「終了の後どーするの?」

という問いです。

ニコライ・レーリッヒ「チンターマニ 」(1935–1936)

念願の美しい稜線を持つ高山を踏破して、頂上から下界を見下ろす。
見たことのないような雲海や、はるか遠方の景色が広がる。

しかし、自らの足元は、といえば大概狭い空間に横たわるごつごつとした岩肌というわけです。人生は。

とはまあ私の考えなんで、

「いや、それでは目標に向かって邁進するひたむきさや向上心をないがしろにすることに等しいではないか!」

とお叱りを受けるかもしれません。

いえ、むしろそこなんです。
私の言いたいことは。



到達点はそこですか?

これは、特に日本の学生に多い現象ですが、
いわゆる「お勉強」というものが、「受験」や「資格」やらの単なる足がかりか、よくてツールでしかない場合が多く見受けられるからです。

終生、学んでさらに学びたいようなそれとは切り離されてしまっている。
だから、既存のレール上の「目標」が達成されれば終了で、次がない。
(もっとも、これをお読みになっている方々は論外ですが)

なんだか畑違いのありふれた教育論みたいですが、とりわけ諸外国の学生さんと比べて日本のそれは「問題意識」というものが総じて希薄なような気がします。

それの足かせになるものは、むろんその教育自体にあるわけですが、一番の懸案は、

どこに自分の到達点を設けるのか?

の問題ではないでしょうかね?

ある方が言っておりましたが、
それは、この世で完結しないほどドデカいところでなくてはならない。

それはわたし的にはヒジョーに正しいことに思えるんです。



作品は結果、完成はない

画家は長命の方が多いですね?

なぜだと思いますか?

たとえば中川一政さん。

神奈川県の真鶴半島。

とっても風光明媚な場所で、好きでよく私も足を運びましたが、

そこに彼の記念館があります。

以前TVでドキュメントを放映していましたが、97歳でお亡くなりになるまで、彼は自らの絵に何度も筆を入れていました。

完成がないんですね。

ここです。

悟ったら終了の意味は。

この世に完成を求めてはならない。

この世は、そしてあの世も、
あなたが「完成」を目指して突き抜けていく一つの「場(フィールド)」でしかないからです。

完成品(作品)は、目的ではない。
結果です。
それは、作者(あなた)の魂の「、」であり、その軌跡です。

だから、名作は人の心を打つんです。
その作品ではなく、それを通した作者の魂に触れるからです。

「書」でも一家を為した中川一政=
「若い時の勉強は 何でも取り入れ 貯めること
である。 老年の仕事は いらないものを すてて
いくことである。 すて去りすて去りして純粋に
なってゆくことである。」との言葉を残した。

となると、そこに命題のごとく横たわる

人生の目的

とやらが見えてくるのではないですか?

目的は先にあります。

ちょっと先ではないですね。

ずーっと、果てしない先にあります。

それが人間の大きさ、器に現れます。



自らの無知を知る智

あなたは、自分の愚かさや無知を恥ずかしいと感じますか?

それを「負い目」に感じますか?

隠そうとしたりしますか?

そうではなくて、

もし他人から指摘されても、
それを怒るのではなく、笑ってみることが出来ますか?

ホントにそうだ

と素直に認めることが出来ますか?

そんな柔らかい心を持っていますか?

あるいは、自分が決して愚かではないとお思いですか?

愚かなところを見つけることが出来た時点で、その人はすでに愚かではないですよ。

それこそ、まだまだ伸びてゆく草の根です。



大成は欠けるがごとし

と、突然ここで老子さんが降りてきました。
ま、私にとっては50年来のつきあいになる口うるさい爺様なんで、耳障りのよろしくない発言があっても向き合ってくださいね。たぶんそれはホントのことですから。

それは、エゴイズムなのか?
いやいや、エゴなんたらなどという次元ではない。
これほど徹頭徹尾自己中心であるものは、ほかに比べようがないほどだ。

それは、無欲なのか?
いやいや、そんな体の良い言葉遊びは幼稚園児同士で交わしてもらえばよい。
欲も欲、強欲無双、何ものにも満足しない精神。この世で無欲に見えるのは、そんなものが眼中にないからだ。この世のちんけな財宝など可笑しくって願い下げではないか?

まさか「足るを知る」(老子「知足」)を勘違いして「分相応」とか「身の丈を知る」などと解釈していないか? そんな大間違いもそうそうない。それは、この有限の世界では満たされることがないほどのドデカい欲を抱えたものに対するこの世での心得だ。

それは、スピリチュアルなのか?
いや、それはさながら泥まみれの土足で踏みつけられた雑草だ。
そんな無菌室か、ぬくぬくした部屋の中での茶飲み話レベルに
どんな精神もあったものではない。
世は明るく賢い人ばかりだが
わたしは暗く愚か者のようだ
人は生き生きと活発に動き回るが
わたしは心が悶々としているようだ
人は何かしら取り柄があるのに
わたしは扱いにくい田舎者のようだ
老子

(こんなんおりてきはりました、だ、だからって、どないする?)

いや、もしあなたが悟りきれない(達成できない)悲哀とやらで、落ち込むには当たらないですよ。

老子爺さんは「なんだかそこに満たされないような」「呆然としたような」「ふっ切れないような」人品こそ「正解」と言ってます。
あの有名な宮沢賢治の「雨にも負けず」でも言ってますね。

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

おろおろ歩くんです。

決してしたり顔をして出来上がってはダメなんです。
当たり前ですね、
この世は有限の世界なんですから。


みなさまへ
今回もご辛抱くださりましてありがとうございました。
長くてどーもすみません。
三平です(←古すぎ)。
実は、別に草稿があったのですが、それの前文を書いていて長くなってしまったのが今回のもの(ブツ)というわけです。
よって、本チャンのものは次回(後編)に回したいと思います。

今回も、気が付けば、「老子」五千言と言われる『道徳経』を上回る文字数になってしまいました💦

大概そうした傾向にありまして、「前書き」が長い、下手すれば「前書きのみ」「看板のみ」「看板倒れ」「男前」みたいな私ではございますが、そんな中にも、二つ三つは「光る」ものがあって、あなたの心に届けば幸いです。
さて、前回は「三界」というあくまでも仏教的な世界観を見てきまして、そこで私たちが「欲界」にいることを明らかにしました。

しかし、よくお読みになられた方は「ハハーン」とお気づきかもしれませんが、「欲界にいることに気が付いちゃったらこっちのもの」です。「知る」ということが、そのマトリクスを解体する第一歩だからです。
なぜなら、あなたも私も、その本体はそんなところにいないのですからね❤(←謎の気持ち悪いハート)
さてさて、いよいよ次回は、精神(スピリチュアル)世界の探査で最も注意しなくてはならないことについて考察してみますね。

よければ、そこにある
「人魚印の磯納豆」を白飯の箸休めにでもお使いくださいませ。
それにしても、土井 善晴先生の「一汁一菜」にしても、何でもない食材に驚きを発見し続ける道場 六三郎先生にしても、老境に入って益々磨きがかかる生き方は素敵ですねえ。




東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。