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暗闇の中で〜001〜ショートストーリー

 森の奥深く、一匹の鹿がゆっくりと足をたたみ腰を下ろした。月の光は木々の隙間から鹿が座っている場所へと光を注いでいる。風は緩やかに樹木を揺らし、ざわざわと音を鳴らしては北へ北へと通り過ぎていった。

「なぜ、時間が過ぎていくのだろう」

 まだ成熟したばかりの若い鹿は、ただそれだけを考えていた。鹿の問いに森が答える。

「時が動かなければ、君たちも動かない」

 その言葉の意味は鹿にはわからなかった。鹿が大きく息を吐く。

「なぜ、夜がくるのだろう」

 森が答える。

「夜があるから朝がある」

「なぜ、暗闇が怖いのだろう」

「君は暗闇が怖いのかい? それはなにも見えないからだ。不安は恐怖に変わる。それでも時が動けば朝がくる」

 鹿が空に目を向ける。風がいくぶん強くなった。

「なぜ、僕は鹿なのだろう」

「君は鹿じゃなければ良かったと思っているのかい?」

「わからない」

「そうか」

 森が答え、鹿がさらに質問をする。

「僕はなぜ、生まれてきたのだろう」

「君は、そこの花を見てなにを思う」

 鹿が目の前の大きな木の根元に咲く、黄色い花びらに目を向けた。

「綺麗な花だ。きっと美味しい蜜が出ているのだろう。白い蝶が花のまわりを飛んでいるよ」

「それは君から見た花の感想だ」

「他にどんな感想があるというのだい?」

「その蝶から見たらどうだ? 蝶は花を見て『ただ美味しそう』と思っているだけではないのか?」

「そうなのかな」

 鹿には意味がわからなかった。森が話を続ける。

「そこのリスから見たらどうだ? リスは花を見て何も感じないかもしれないぞ」

「あぁ、そうかもしれない」

「それなら、同じ花から仲間の花を見たらどうだ。自分の方が綺麗だと思っているかもしれないし、逆に羨ましく思っているかもしれない」

「そうだね」

「全ての物は決してひとつの言葉では表せられない。様々な一面を持っている。花の後ろに居たら、いつまで経ってもその花が開いた状態を見ることが出来ない。それでも花は花だ。ある物は食べ物だと思い、ある物はそれを見て心が癒される。またある物は妬んだりひがんだりもする。その花は見方や立場が違うだけでこうも違ってくる」

「あの花が枯れてしまったら、また違う感情が沸いてくるのだろうね」

 鹿は森が言うことが、なんとなくわかったような気がした。

「そのとおりだ。君の母親だって、君から見たら母親だけれども、君の父親から見たら母親ではない。他の動物から見たら? 母親も父親も関係ない、君たちはただの鹿だよ」

「それが、僕がなぜ生まれてきたかの答えなのかい?」

「誰しも生まれてきたことには意味がある。君が存在しているから世界が動いている。なぜ生まれたのかは君にしかわからない。君の記憶の中に答えがある。君には悲しい記憶も嬉しい記憶もあるのだろう?」

「子どもの頃は楽しかったよ。僕には二人の兄弟が居たんだ」

「あぁ、知っている」

「あの頃は両親に守られていた。不安はなかったよ。広い世界を兄弟そろって飛び回っていた。見るもの全てが新しかった。いま考えると、そこは両親が見守るほんの小さな森の中だったんだ」

 それは鹿の頭に角が生えるずっと前の話。ずっと前だか、鹿にはほんのすこし前のことのようにも思えた。

「僕にもいろんな見方があるのかな?」

「そうだ。君のことを愛るする者も居れば、君のことを食べ物だと思う者も居る。もちろん君のことを怖がる者だって居る。君を食べ物だと思う者から見たら、君はその者のために生まれてきたことになり、君を愛する者から見たら、君はその者のために生まれてきたことになる」

「それなら僕は他人のために生まれてきたのかい?」

「それは違う。君は君自信のために生まれてきたのさ。その結果、君を愛する者は君の存在を喜び、君を怖がる者は君の存在を哀しむ。君の行動が様々な者に影響を与えるのだ。選んだのは君だ」

「死とはいったいなんなのかな?」

「通過点だ。君が亡くなると、君は他の動物の血となり肉となる。そしていつしか土になる。それはやがて緑の葉となる。そして空気となり新しい生命となる。君は森に帰り、また森から生まれる」

「僕が死んだら誰が悲しむのだろう? もう両親も兄弟もこの世界には居ないんだ」

「私が君のために泣こう。君がまた生まれれば、私は君のために喜ぼう」

 鹿の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。 

「ありがとう。……結局。誰しも独りなのかな?」

「独りは嫌かい?」

「あぁ、独りは嫌だよ。いまとても心細い」

「君は独りかい?」

「そうだよ。此処には僕しか居ないだろう?」 

「いまは一緒に居なくても、君には友達や仲間が居るだろう。過去には両親も兄弟も居た」

「あぁ。でも誰も僕がいま此処に居ることを知らないんだ……」

「そう思うなら君は独りだ。君がいま仲間や両親を思えば、それは独りではない」

 鹿が地面へと横たわり、横顔を落ち葉の上へと乗せた。落ち葉がゆっくりと沈み込む。

「……ねぇ、なぜ、狼は僕を襲うのかな」

 目を閉じて森に尋ねるその顔は子供のようだった。

「それなら君は、なぜ木の実を食べるのだい?」

「……生きていくためだ。……そうか、狼も一緒か。それならなぜ生きていくのだろう」

「君は生まれてきたからさ」

「僕は生まれてきたから生きていくのか」

 鹿が体の力を抜き、そうつぶやく。その声はとても小さい。

「……なぜ、時間が過ぎていくのだろう」

 鹿が目を開き傷だらけの体を眺める。もうあれほど流れ出ていた血のほとんどは黒く固まっている。痛みの感覚もとうになくしている。

 鹿の問いに森が答える前、鹿はゆっくりとその瞳を閉じた。ほんの一瞬、森全体が泣いているかのようにざわめいた。

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