【小説】かすみ 前編 【太宰治『女生徒』】

    あさ、眼をさますときの気持は、面白い。砂糖菓子の中をくるくる、ふわふわ、泳いでいたのが、ひょいとつまみあげられて、ばちばち熱くて煩わしい、油の中に放り込まれたような。テレビのチャンネルが突然切り替わったような。まぶしくて少し気分が悪くて、やりきれない気分。私はとっても気持ちよく過ごしているのに、残念なものや、どうでもいいものがドアを蹴っ飛ばして侵入してくる。しまった、電気つけっぱなしで寝てたなぁとか、今何時?とか、今日の英語のプレゼンやだなぁとか。
 美味しくなくて、かわいくなくて、優しくないものは私の世界にいらないのに。そんな異物が混入して、点滴みたいにじゅるじゅると浸透し、私を目覚めさせていく。朝は、意地悪。なんでみんな仲間外れにしないんだろう。こんないけ好かないやつ。
 最悪なのは「朝」ってやつで、この世界で、生きていくということそのもの。私はただ、自然に従って生きていただけなのに。どうしてこんなに面倒な思いをしなくちゃいけないんだろう。
 だけど私は世を儚んで玉川上水に飛び込むようなメンヘラではない。それなりに努力して、世界で息をしやすくするために、呼吸器をつけることにした。
「…手術はこれで終わりです。ゆっくりと、目を開いてみてください」
 両方の鼻の穴につけられたチューブが外されて、ほどなくして意識がはっきりしていく。さっきまでのふわふわは麻酔によるものだったのかと、見当外れにがっかりした。恐る恐る、目を開けようとするけれど、重たくて持ち上がらない。無理やり開けると、まぶしかった。すぐに私の目の前に顔面が映される。
 鏡だと気付くのに時間はかからなかった。赤みがかって痛そうで、でもしっかりと食い込まれた目元があった。
「お疲れ様でした。今はまだ腫れていますが、出血はとまっているのでご安心ください。最低一週間はしっかり安静にして、おでこや頬骨のあたりを冷やすといいですよ。入浴は翌日から。メイクは3日後から。この錠剤は痛み止めなので、麻酔がきれた今夜と、痛みがひどいときに一錠ずつ…」
「はい…」
 ドクターの話を聞きながら、私は自分の顔を見ていた。目の裏側がごろごろして、目尻がなんだかすぅすぅして、変な気分。違和感っていうか、嫌な気分。ほんと、意地悪で最悪。だけど、今の気分は、これまでのどれとも同じじゃない。私は昨日までの私とは違うのだ。
 不安と不快と苛立ちと、期待、哀愁、高鳴り。こんな気持ははじめてだ。やっぱり、眼をさますときって面白い。

    生まれ変わった私がはじめて学校へ行ったのは、それから二週間が経った5月15日。今日こそ学校へ行こうと思っていたからか、かわいいピピが布団へ潜り込んで私を起こしてくれた。
 顔を洗って髪をとかして、鏡台へ座る。飴色の大きな鏡はお母さんの嫁入り道具だった。二重の線の入った瞼と、綺麗な半円になった瞳の輪郭が映る。瞼をなぞると、少し前までぷっくりと熱かったところが、しゅんと滑らかになっていた。
 コンタクトレンズをいれると靄がかかった世界がクリアになる。眼鏡じゃない自分は久
しぶりだった。私がいる。これが私。鏡台は私の存在証明だ。まつげと平行になぞられた地平線に、私は気持ちがルンと高鳴った。ウインクをする。私、かわいい。
 髪をカールさせて、新生・仲川花澄の完成。わー。ぱちぱち。ラベンダーの香水に気づいたのだろう、二匹のかわいこちゃんが私のまわりをくるくるまわる。パピヨンのピピとフレンチブルドッグのルル。ピピは顔の良い乱暴者で、ルルは愛嬌のあるお馬鹿さん。
「やだ、ピピ。あっちいって。毛ついちゃう。ルーちゃぁん。こーら」
 かまってほしそうな二匹をひとしきり撫でまわしてから家を出た。一番かまってほしい人は私を起こさないでひとりで行ってしまっていたのだから。
 いつから朝ごはんを食べなくなったのだっけ。鍵をまわしながら考えた。お母さんがトーストを焼いて、お弁当のおかずがほかほかのうちに食べられた。私はあまい味付けの方が好きだったのだけれど、お父さんはいつもハムとレタスを乗っけていた。家族三人の朝ごはんがあった頃、小学校ではその大切さをうんと聞かされた。
    だけど食べなくなってもどうだ、私は何も変わらない。なくても悲しくならないものは、大切なんて大層な名前をつけるに足らない。私は思う。ひとりでご飯を食べていることのほうがかなしい。じゃあいらない、でしょ。
 雨が降っていたから水色の傘を開いた。レースと桃の花が描かれたお気に入り。歩き出す。ローファに水が染みるのを気にしていたら、前からぞろぞろ集団が来る。すれ違うその人が傘を傾けなかったから、私の肩に雫が跳ねた。しかも同じ作業着を着た人間の連続で、みんな私の傘に容赦なく自分の傘をぶつけた。セーラー服が滲んで、薄紅色のリボンが溶けてしまう。ああ、ああ、いらない!花模様の傘が泣いていた。
 私の持っている少女の愛らしさは、世の中の多くの前では無力である。私はうんと気持ちが落ちて、カールした髪の毛もしぼんで、下を向いてしまった。もう一刻も早く、小さく弱々しい生き物でいられないと思った。強く気高くなりたかった。

    二十分電車に揺られて、そこからまた十五分歩いて、学校へ向かった。鏡台の前で満ちていた自信は随分減ってしまった。この気分を私は知っているような気がした。満ちていた感情がぽた、ぽた、気づかないうちに漏れてゆく。
    お父さんが死んだときがそうだ。自転車を漕ぐ背中。私を抱っこして肩車した腕。いっぱいあったお父さんの記憶が、長針と短針に絡み取られて少しずつ減っていく。いつのまにか、全部が平気になっていくのである。だけど、気づかない間に足されていくのもそれなのだ。ふとしたときに、私はお父さんのいない子なんだと思い知る。お父さん。お父さん。花澄はお父さんがどんな人だったか忘れちゃったよ。雨の日に駅前まで、大きな傘をさして迎えに来てくれる人だったらいい。

 校門の前で銅像のおじいさんにお辞儀をしてから中へ入る。私の通う女子中学校では宗教の授業がある。ブッダム、サラナム、ガッチャーミー。私が勉強しているのが、カトリックとかプロテスタントとか、カタカナの清廉された名前だったらよかった。お念珠が嫌だとか、決してそんなんじゃないけど。マリアさまみたいな聖女が、美しくてあたたかな、愛と畏敬の対象が私にもほしかった。
 マリアさま予備軍、千紗希。教室に入ったらすぐ、笑って声をかけてくれた。
「やだ、元気だった? 今日来るって聞いたから、楽しみで早めに来ちゃったよ」
「久しぶり。いろいろありがとね」
 千紗希と目があって、すぐに反らしてしまった。千紗希は綺麗。背が高くて細くて、長い髪と藍色が似合う。菖蒲のような女の子。じっと見られたくなくてどきどきした。千紗希は今、私の顔を見て、違和感を感じている。でもそれが何なのかとまではぴんときてない。千紗希は鈍感なところがあるから、私のなにがちがうのかわからない。そうだったらいい。これは、願望。
「一限はグループワークだよ。うちの班おいで」
 千紗希は笑うと涙袋がきゅるんと浮かび上がる。黒目は薄い茶色で、きらりと光りを跳ね返すのだ。生まれ持った美麗が私の加工を浮き彫りにしていく。千紗希はこれで、マスクを外してもきちんと可愛いのである。

「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向かって度せずんば…」
 久しぶりの朝拝だった。先生は教室に入った瞬間、私を見て怪訝そうな顔をしたけれど、何も言わずに朝の挨拶へ入っていった。日直の生徒が前に立ち、先導して読み上げるのを、礼賛抄と念珠を親指と残りの指の間に挟んで聞いた。
 これは儀式でもなんでもない。授業の前には教科書を用意するとか、体育の前は体育着に着替えるとか、そういうのとおんなじ日常の動作。誰も意味をわかって唱えてなんてない。宗教の難しいところはわからない、考えない。そんなハリボテの信仰心が私には心地よかった。
「自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生と共に…」
 三帰依文を合唱する。私は急に馬鹿らしくなってしまい、唱えるのをやめた。マスクをしているから、口が動いていなくたってバレないのだ。
 この音頭は、生まれてきて万歳!教えを受けられて万歳!みたいな意味だったはず。私はそんな、手放しで生を喜べるような能天気ではなかった。一月に一週間ほど、人生というか女をやめたくなることがある。別に男の子になりたいわけではない。
 男の子。一昨日、夕方から美容院に行きたくなって吉祥寺へ出た。その帰りに話しかけてきた、軽薄な男の子のことを思い出した。どこ行くの、かわいいね、なんて。私は迷惑がってバスの時間があるからと突っぱねて、不服そうな眉毛を無視して颯爽と歩いた。私を認めてくれる男の子は無差別に魅力的。本当はありがとうと言いたいくらいだった。
 斜め前の千紗希が目に入る。千紗希の二重を眺めてばかりの中学生活が駆け巡る。掃き溜めきたいな優越感に手足をめいっぱい伸ばしてぬくもった。縮毛矯正をかけた髪の毛がさらりと垂れている。

「仲川さんさ…」
「ね、絶対そうだよね」
 職員室の帰りにトイレに寄ろうとして、私の名前が聞こえたので立ち止まった。トイレで噂話とか。前時代的。
「……ね!」
「ヤバい!」
 何が?
 誰の声だろうと考えだしたけれど、女の子の声って似通っていて、思い込みで特定の人のものに聞こえてしまう。私が嫌な生き物になる前に離れた。他人の噂をする時間って、世界で一番無駄。汚物と一緒に流しておけ、と心の中であっかんべぇ。
 私が先生にこっそり呼ばれた理由は案の定であった。面談室に通されて、眼鏡の弦を触りながら、淡々と話をされた。
「親御さんの同意のもと?」
「はい」
「今後は。校則に守られているうちは、やめなさい」
 優しい先生にこんな顔をさせてしまったので、私はちょっと反省した。私は私のものだけど。制服を着ているうちは、私はこの学校のブランドを借りている。私のせいで坂林先生が怒られてしまうかもしれないと思うと、少しだけ、はじめて、後悔してしまった。
 先生は、最後に「素敵よ」と言ってくれた。先生が素敵な人。一気に好きになって、大人になるのなら、先生みたいな人になろうと思った。派手ではないけど華やかで、他人を慈しめる人。大きな犬を飼っていて、アイスコーヒーと古本を愛して、きちんと生きていく。野菊の花のような人。
 そのあとトイレによったら例の話を聞いちゃって、勢いで学校を飛び出して。そのまま帰り道を歩いた。真壁さんだろうか、山本さんだろうか。
    私の顔変だったのかな。みんなこっそり笑っているのかもしれない。そんなことない。私が好きな私だから、それでいいじゃん。…ヤバいって何。そういうこと言う方がヤバいし。顔も心もぜんぶぜんぶ。ああもう最低、やめよ、やめよう。どうしようもないことを考えるのはやめよう。
 一人の帰り道はいろいろ考えてしまうから嫌い。千紗希に待っていてと言えばよかった。駅までの道は長くて、電車に乗るまでに疲れてしまう。雨はあがったけれどどんより曇った空。嫌いが溢れる。溢れる。零れないで。
 私はすっかり疲れてしまっていて、わざと各駅停車に乗っていた。座って帰りたくて、いくつか車両を眺めて、空いている席を見つけて車内に入った。全身疲れていた。ふくらはぎがじわじわ暖かくなっていって、疲労感を体中に巡らせる。目を閉じる。瞼の裏からも暖かさが広がった。
 眠るときの気持ちが死ぬときに似ていたらどんなにいいだろう!私は毎日毎日死んでいて、毎日毎日別の人間になってるんだ。だったら本当に死ぬときだって、微睡みに任せたとっても快適なもので、もう一度生きるのなんてごめんになる。生への醜くて必死な執着を簡単に捨てられていけるのは素敵。
 隣からカチャカチャと音がして見ると、茶色い髪の毛を縮れたウェーブにパーマをかけた人がパウダーをはたこうとしていた。急に心臓がはやくなった。
    ああ、汚い。女の汚いところ、嫌なところ。こんなに醜い。私もこうなるのだろうか。こう見えるのだろうか。そんなのってなんてひどい。もう遅いかしら。女だけがわかる、女の嫌なところ。女の園で暮らしてきて、そうなっていく自分に思い当たるところもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。
 わけもなく涙がにじんだ。目を閉じていたから、目じりにきゅっと溜まって、ぽとんと落ちた。この雫には私の嫌なところが濃縮されていて、どぶのように濁っているのだ。それを落として、私はとびきり清涼になりたい。

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