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サンタクロースも、そろそろおしまい

もうすぐクリスマス。我が家には二人の子どもがいる。下の娘は小学5年生。今年も我が家にはサンタクロースがやってくる予定だ。

今年15歳になった息子が産まれてからというもの、毎年我が家のクリスマスは大騒ぎだった。「プレゼント何が欲しいか、サンタさんにしか教えない!」と言い張る年、12月下旬になってから突然気が変わって変更されるリクエスト、そっと枕元に忍び寄るも、ぱちっと開かれる子供たちの瞳…サンタの手先として忠実に働く我々夫婦は、そのたびにきりきり舞いをしたものだ。
とくに忘れもしないのは、娘が保育園の頃のこと。その年はたまたま私の実家の両親が、娘のクリスマスプレゼント希望のプリ〇ュアの変身ドレスをネット通販で買ってくれた。娘に見つかっては大変と、私はクリスマスイブの当日まで、父が手配してくれた通販サイトの段ボール箱に入ったままのプレゼントを、クローゼットの奥深くに仕舞いこんであった。
いよいよイブの夜。クリスマスのご馳走やケーキを食べ終え、娘は夫と二人でお風呂に入っている。子供たちが寝静まってからプレゼントの梱包をする予定だったが、虫の報せというやつだろうか、ふと不安がよぎり、プレゼントの段ボール箱を開封してみた私は心底驚愕した。その箱に入っていたのは、娘が希望していたキュアミュ〇ズの衣装ではなく、同作品に出てくるほかのプリキュアの衣装だったのである。きちんと説明しておいたはずなのに、プリ〇ュアにはとんと縁のない実家の父が、注文する際に間違えたようなのだ。
ざあっと顔から血の気がひいた。娘は、明日の朝にはキュアミュ〇ズに変身できると楽しみにしている。サンタは決して約束を違えたりしない。私はあれこれ考えるより先に財布をひっつかみ、おもちゃ売り場のある大型スーパーへと車を走らせた。時刻は忘れもしない、19時40分だった。
駅の近くの2軒の大型スーパーをはしごしても見つからず3軒目、閉店ぎりぎりに滑り込んだ家電量販店のおもちゃ売り場で、やっと娘の希望する黄色の変身ドレスを見つけたときは、安堵で膝から崩れ落ちそうになった。買ったプレゼントは車に隠したまま、何気ないふうを装って家に帰り、子どもが寝静まるのを待って、用意しておいた包装紙でプレゼントを包んだ。少し迷ったが、両親が送ってくれたピンク色の変身ドレスも一緒に包んでしまった。今年のサンタは出血大サービスである。
翌朝、娘が予想外のオマケまでついたプレゼントに狂喜乱舞したことは言うまでもない。


思えば20年以上前、私が高校生の頃にも、年の離れた妹のクリスマスプレゼントに翻弄されたことがあった。イブの夕方に突然、母から「妹ちゃんが今日になって、サンタに頼むプレゼント変更したって!カントリードールが欲しいって!お姉ちゃん学校帰りに探してきて!」という、無茶振りにもほどがある連絡が入ったのである。
当時、インテリア雑誌などで盛んにアメリカンカントリー調の雑貨が取り上げられ、ちょっとしたブームになっていた。母の買う雑誌を私たち姉妹も愛読していたが、しかしカントリードール(素朴な風合いのアメリカンコットン生地などでつくられた手作り風の人形)とは。雪国の田舎町に、果たしてそんなものが売っているだろうか。
ぼたん雪が容赦なく降りしきる夕闇の商店街を、制服姿で頬を真っ赤にしながら速足で歩き回った。思いつく店はみんな探して、そういえば最近開店した店があったな、と最後に思い出した。ハンドメイド雑貨の委託品を並べたその店のショーウインドーに、ウサギの人形が座っていた。アメリカ製のアンティーク布のワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった、イメージ通り、まごうことなきカントリードールだった。
お店の主人である女性は、突然店に入ってきた雪まみれの女子高生の話を目を丸くして聞き、それからとても喜んで、クリスマス用の包装紙で素敵にラッピングをしてくれた。
そのウサギは幼い妹にとても可愛がられ、そして今もまだ、実家の寝室の棚の上に座っている。思えばあれが私がクリスマスの小さな奇跡のとりこになったきっかけであり、私がはじめてサンタクロースの片棒を担いだ日だった。

そんなわけで私のサンタクロース代理業へのこだわりは並々ならぬものがある。自分の両親が、私と妹の二人の娘に対し、真摯にサンタクロース業を務めてくれた、ということにも由来している。
私と両親の関係、とくに母親との関係は、決して良好とはいえなかった。幼いころから太めぽっちゃり体型だった私のことを心配した母は、何とかして私を痩せさせようとした。太っているのはみっともない、誰からも好かれないし信用もされない、どんな服を着ても似合わない、と毎日のように私の容姿をけなし続けた。私の自尊心は限りなくゼロに近くなり、わずかに残ったプライドにしがみつこうと必死で、「人は見た目じゃない」と母に反抗し続けたが、そんな私をなんとか屈服させようと、母はさらに私の体型を辛辣に批判することになり、父もそれも黙認し、ときには一緒になって私の容姿をからかって笑った。結果として思春期の終わりころには、私は自分自身を世界で一番醜いとまで思いこむようになっており、「自分は醜くて誰からも好かれない」という呪いは、そんなことはありえないと頭では理解しつつも、その後ずっとダイエットとリバウンドを繰り返したり、鬱病を患ったり、私の人生に深刻な影響を落とし続けたのだった。

そんな私も年を重ね、どうにかこうにか人の親となった。絶対に自分の子どもには実の両親と同じような接し方はするまい、と歯を食いしばって育ててきたつもりだが、毎年、クリスマスが近づくと思い出すのは、自分の両親が、手を変え品を変え、なんとか私にサンタクロースのプレゼントを届けようとしていたことだった。
家業は自営業の飲食店で、年末は目が回るほど忙しかったはずなのに、必ずクリスマスイブにはご馳走を作り、25日の朝には枕元に私が希望した通りのプレゼントがあった。サンタの実在を疑う年頃には、わざわざ遠い街にある輸入文具の店で買った外国のクリスマスカードに、筆記体の英語でメッセージを書いて、間違いなくサンタさんは外国から来てくれたのだ…!と、単純な小学生女児の疑いを晴らしたりしてくれた。

母も父も、たぶん私を呪おうなどというつもりはなかったのだ。毎年クリスマスには、全力で私たちを楽しませようとしてくれていたのだ。
その事実を素直に認められるようになるのに、ずいぶん時間がかかった。
両親を許せるか許せないか、という二択ができるような問題ではない。私は40歳近くなった今でもときどき、両親に言われた言葉がフラッシュバックして動悸が苦しくなるし、夢を見てうなされることもある。メンタルの調子が悪いときは鏡が怖くて見られなくなる。過去は消えないし、傷は薄くなることはあってもゼロにはならないだろう。
ただ、クリスマスの夜更けに、自分の子どもたちが寝静まるのを待っている時間、同じような時間を両親も過ごしていたのだと、毎年かならず考えた。
私は傷つけられた子どもであったのと同時に、大いに愛されていた子どもでもあったのだという事実を、硬くなった土に少しずつ水がしみ込むように、毎年少しずつ受け入れられるようになっていった。

サンタクロースのお仕事は、決して子供だけのためじゃないんだと、最近はつくづく思う。自分がしてほしかったこと、嬉しかったこと、言ってほしかったことをサンタクロースに託して、自分の子どもに注ぐことで親自身が満たされる。もしかしたら私の両親も―貧しい育ちで欲しいものはほとんど買ってもらえなかった母や、裕福ではあったけれど両親が多忙でろくに構われずに育ったという父も、同じように自分の子ども時代からの飢えを満たそうとしていたのかもしれない。
過去は消えない。嬉しいことも、辛いことも地層のように積み重なって、また新しい年の出来事がどんどん増えていく。
それは辛くもあるけど、なかなか喜ばしいことだと、最近は素直に思う。

そんなふうにサンタクロースとしての日々を過ごしてきたが、下の娘ももう11歳。信じて疑わなかった去年までと違って今年は、サンタさんに何を頼むの?と私が聞いても、ちょっと意味ありげな目をするようになった。
15年間続けてきたサンタクロース業も、そろそろおしまいの気配だ。嬉しくて、そして少し寂しい年の瀬である。


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