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かたすみの女性史【第2話】壺井栄をナメるなよ !(その11)

壺井栄をナメるなよ !(その11) 栗林佐知


(その10)からつづき

■石牟礼道子をホメタタエルなら……


 面白い「壺井栄論」を目にした。 
「草いきれ論争」が始まる前の1952年9月、「新日本文学」誌上に載った、栄たちより20歳若い詩人・評論家、関根弘によるものだ。
 
 関根は、前年(1951年11月)刊行されたの栄の『母のない子と子のない母と』(光文社、初出は「毎日小学生新聞」原題「海辺の村の子供たち」)について、「いい人ばっかり出てきて、ちょっと強引だ」という。
 そしてこの「強引さ」の発端は、3年まえの『妻の座』にあるのではないかというのだ。
 
 「妻の座」のとき、栄は素朴な善意から、双方がどんなに喜ぶだろうと思い、「われ鍋にとじ蓋」といって、「野村」と「閑子」を結びつけ、結果、大きな不幸を生んでしまう。その原因となった自分の信念「われ鍋にとじ蓋」を反省せず、『母のない子と子のない母と』では、この行動原理をハッピーエンドに強引に結びつけている、と。
《壺井の小母さんは、人は好いけど強情っぱりだよ、親切だけど嘘つきだよ》。
 関根は、「妻の座」が、力のこもった上質の作品であることも評価しながら、こういうのだ。
 栄のこのような限界、「自己批判しない強情さ」こそは、まさしく庶民性の証しであり、これが、大ベストセラー「二十四の瞳」が、「侵略戦争に邁進した日本人の加害性を忘れ、蒙った庶民の悲哀のみを語っている」といった批判をうける面ともつながっているかもしれない。



 
 ……と思ったのだが、改めて『母のない子と子のない母と』を読んでみると、作品の中からあふれ出す豊穣なディテールの輝きに、「興味深い批判」などぶっとんでしまった。
 風や海のありさま、生業の手順、生活の技術、目に入ったゴミ、雨漏りの恐怖にまでなんと豊かな名付けがされていることか。戦争に子や親をうばわれた寄る辺なき人々の心、意地悪や盗み、疑いもありながら、身を寄せ合って生きる、「新自由主義」以前の暮らしが、息を飲むほど濃やかに記録されている。
 これは、未来に残したい文学だと、おおいに思った。
 
 それに、夫と子を亡くした「おとらおばさん」と、一郎の復員したお父さんが互いに再婚するのは、関根弘のいうように、強引に作者の「素朴な正義」を勝たせた、というふうには、私にはみえなかった。二人は旧知のいとこ同士で、まわりの人たちも、無理にくっつけるのはいけない、とじゅうじゅう注意しているのだ。
 むしろ栄は、「妻の座」のときのような「斡旋」を悔いて、どういう場合なら「われなべととじぶた」が幸せになれるのか、思いを尽くして、「ひどい結果になった出来事を巻き戻して、やり直したい」というような、悲願をこめて描いたのではないか、と思えた。
 
 それはさておき。
『母のない子と子のない母と』のあふれかえる自然と人の暮らしの名付けの豊かさ、登場人物たちの一種の理想的ないたわり合いに、ふと、石牟礼道子さんの作品を連想した。

 故郷、水俣に暮らし、「近代」に暮らしと健康を破壊された水俣病患者に寄り添い、近代以前の人間関係、虐げられた人々の心の美しさ、一種のユートピアを記録した石牟礼道子さんは、最晩年には、ちょっとうすきみ悪いくらい神格化されていたが、壺井栄もまた、その半分でよいから尊敬されてしかるべき作家ではないかと思うのだ。
 
世の中は今、言葉を失うほど悪くなっている。
それは、「若者の死亡原因のトップが自殺」ということ一つ、あげるだけで十分だ。
 こんななかで「ディストピア文学」はもうあまり力を持たないのではないかと思う。作家の想像力を、現実のエグさが遥かに凌駕しているので。

 文学は、あまりこういうことをしてこなかった。
 ユートピアを描くこと。
 ユートピアが描けないのは、過去にはあった豊かさを、語り受けていないからではないのか。
 
 壺井栄は、今、最も必要な文学者のひとりだと思う。
 壺井栄が愛され敬われる世の中に、私は生きたい。

(了)

(番外編)へつづく(かもしれない)→

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