見出し画像

野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その2)


←(その1)からのつづき

第一話 大黒屋光太夫 (その2)


【1】(のつづき)

 出帆の翌日、駿河湾沖に達した神昌丸を激しい暴風雨がとらえた。
舵が壊れる。
船底にあか〔水〕がたまり、蔵米や木綿製品などの積荷も雨波を吸って重みを増す。
積荷は大事だが人命にはかえられない。水夫たちは必死に淦を汲みだし、打荷〔荷物の投棄〕をする。
ついに光太夫は、船の転覆を避けるために帆柱の切り倒しを指示した。

 やがて天候はおさまったが、帆を失った神昌丸は、あてもなく大海をさまよう漂流船になった。

漂流は、人が自分の意志とは無関係に、自然の力で意図せぬ場所に運ばれていく経験である。
江戸時代、日本の港を出帆した船の漂流先は、近海の離島朝鮮中国台湾、ルソンが多かった。
潮流や季節風にのって北方に運ばれることもあるが、生き残って記録を残せた例は少ない。
神昌丸がいつしか流されていったのは、その北方だった。

 船が長期の漂流生活に耐えぬくには、積荷にどれだけ食料があるかが鍵になる。その点、多くの米を積んだ神昌丸はめぐまれていた。

だが、食料の備蓄があっても船頭の器量しだいで長期の漂流は困難になる。これは海外の事例だが、1816年、フランス軍艦が暗礁に乗り上げ、147人が大きな筏に移ったところ、食料も水も十分あったにもかかわらず、13日間のうちに132人が消えた。殺し合ったのだ。

神昌丸の場合は、水主の多くが気心の通じる同郷者だったことにくわえ、光太夫が信頼する親仁の三五郎がいて、また光太夫が統率力の持ち主だったことが幸いした。

 だが、漂流が長びいてくると、さすがに水主たちの心もすさみ、お互いの関係もぎくしゃくしてくる。気候も急に寒冷の度をましてくる。だいぶ北に流されてきたようだ。野菜類を口にしないためビタミン不足におちいる。焚付けがなくなり米も炊けない。ついに体調を崩す者が出はじめた。7月15日夜、幾八が息絶える。最初の死者だ。

 19日昼、体調のすぐれぬまま船べりに出ていた三五郎が、海に昆布がうかんでいるのをみとめた。陸地が近いしるしだ。
翌20日の朝日が昇るころ、小市が櫓にのぼって東北東の方角をみると、靄のなかからくっきりと島の姿があらわれてきた。
船が白子の港を出てから、すでに8カ月以上がすぎていた。

大黒屋光太夫(その3)へつづく

→ 野口良平著「幕末人物列伝」マガジン (目次)
→第一回 大黒屋光太夫(その1)へ(文末に著者プロフィールあり)

★ヘッダー写真:三重県鈴鹿市の大黒屋光太夫記念館前に立つ、大黒屋光太夫のブロンズ像(著者撮影)

参考文献 ↓

・本文の著作権は著者(野口先生)にあります。
・記事全体のリンク、シェア、ご紹介はモッチロ~ン嬉しいです!!




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?