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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その6)

呉林俊──激情の詩人の生涯(その6)

林浩治

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5)大日本帝国の敗戦=朝鮮解放


 1944年12月下旬、老黒山の中隊が南方に転戦したあとも、劣悪不良兵の烙印を押された呉林俊は満州に残留した。
後任部隊がハルピンから到着すると、1945年3月、満州からの最後の抽出転用兵として朝鮮に移動した。

 釜山での陣地構築を任務として日本統治時代は「牧之島」と呼ばれた影島(ヨンド)に駐留したが、一転ソ連軍を迎え撃つためにソウル龍山(ヨンサン)に結集させられた。

隊は8月15日を龍山で迎えたが、朝鮮人兵は即日帰郷となった。しかし呉林俊は両親が日本にいたため、隊の引き揚げまで日本兵の任を解かれなかった。

 敗戦後、隊は半島ホテル(後のロッテホテル)に非常招集された。朝鮮民衆のデモ行進を監視するためだ。
デモ隊は太極旗を掲げて独立万歳を叫んでいた。呉林俊は自分と同じ朝鮮人が一夜にして国旗を掲げて堂々と行進し、自身は日本軍の軍装に着剣して朝鮮民衆を弾圧する立場に立った。
 日本の朝鮮軍区司令官は、朝鮮の治安は日本軍をもってあたると告示、ソウル市内の要処要処に歩哨を配置し、戦車隊まで出動させた。
 その日本軍の中にひとり朝鮮人である呉林俊もいた。朝鮮解放の日に日本兵として銃を持った事実は、後々まで同胞の一部から避難された。

 9月8日午後1時、米軍は仁川から上陸し、日本軍の武装解除と撤退を命令した。呉林俊は10月14日にLST(戦車揚陸艦)に乗ったと話しているが真相は不明だ(村松武司との対談「八・一五と解放の心理」『朝鮮人としての日本人』所収)。

とにかく日本兵として朝鮮から再び玄海灘を渡って佐世保に上陸したのだった。

→(その7)へつづく
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*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。

◆参考文献

◆写真について
ヘッダー写真
ウィキペディア「光服節」のページより
西大門刑務所を出所した政治犯 (1945年8月16日午前9時)
撮影者不明 - KBS 스페셜 8.15 광복특집 - 기억의 재구성
마포형무소 1945년 8월 16일 오전9시
パブリック・ドメイン
File:Prison Release of Korean activists.JPG


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