見出し画像

コミュニケーションのカタチ

 世の中にはいろんな「コミュニケーションのカタチ」があるけれど、ひとそれぞれやっぱり「好き嫌い」というか「得手不得手」があるなって思う。

 たとえば僕は「よくしゃべる人」が苦手。理由は、一緒にいるとなんだか疲れてしまうから。情報量が多すぎるというか、話題の切り替わるペースが速すぎるというか。どうしても「ついていけないな」って感じてしまう。

 コミュニケーションはよく「キャッチボール」に例えられるけれど。よくしゃべるっていうのは、間髪入れずにボールを投げつけてるようなもので。投げている方は楽しくても、キャッチする方はやっぱり大変だと思うんだ。言ってみれば「千本ノック」みたいなものでしょう?

 もちろん「話すペース」ってみんな違うから。「お前が遅いだけだ」って言われたらそれまでの話だし、相手にはなんの悪意もないってのはわかる。もしかしたら『沈黙』を避けようとして「必死にボールを投げているだけ」だったりするのかな。

 でも会話には、沈黙があってもいいと思うんだよね。ふと言葉が途切れたときの目線や仕草は、言葉以上に多くを語ってくれるし、なにより会話ってスピーチやプレゼンじゃないから。お互いに自然なペースで楽しめたなら、心地いいなと思えるはず。ただその自然さが違うんだろうね、人によって。

 たくさん話せること、大きな声を出せること、自己を主張できることは、「発信」ではあるけれど、「コミュニケーションじゃない」と思う。相手に何も言わせないことが目的なら、それでもいいかもしれないけど。

 若い頃よく「飲みニケーションだ」とか言われて、上司に連れ回された。でも中身は、上司の武勇伝と家庭の愚痴を聞かされるだけで。そんなものに付き合わされたうえ、翌朝一番に「昨日はありがとうございました」なんて言わされるんだから、みんな疲弊しちゃうに決まってる。

 もちろん受け取る方も、ただ聞いてるだけじゃなくて、相槌を打ったり、たまに質問したりして。ちゃんと受け取って、投げ返すところまでしないと「コミュニケーション」とは呼べないから。受け止め方も大事なんだけど。

 だからと言って「質問攻め」されるというのも、またしんどくて。たまに「なんとか質問しなきゃ」って人もいるけれど、無理をしているのは相手にも伝わるから。結局、お互いに疲れちゃったりする。

 ときには「それは違うと思います」って言うことも大切にしたい、なんて思うけど。実際は難しいもので。そこは相手との関係性次第なんだろうね。結局のところ「コミュニケーションは難しいね」って話なんです。

 閉めたはずの蛇口から、ぽたり、ぽたりとこぼれるような。絞り出された言葉を紡ぐひとは、素敵だなって思う。コーヒーを抽出する過程みたいな。

 note記事でも、わーっと情報を書き連ねた記事よりも。ぽつり、ぽつりと言葉にした記事の方が好きなんだ。雰囲気とか、為人まで、伝わるようで。


撮影ワールド:Dreamy Sunset/もちもちも さん

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?