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『矛盾』を抱えながら/仮想現実での生き方

この記事は、先日実施された『VRライフスタイル調査』のレポート公開記念note投稿企画"仮想現実での生き方"を考えように向けたものです。


はじめに

 『メタバース』を知ったのは2021年。興味本位でVRゴーグルを買って、二年半が経つ。初めは驚きの連続だったVR体験も、今では生活の一部だ。仕事から帰ったら、寝るまでの時間を「仮想現実で過ごす」のが僕の日常。

 記事を読んでくれる人には説明不要かもしれないけど、メタバースというのは「インターネット上の仮想現実空間」のことで。厳密には色んな要件があるけれど、詳しい内容については『メタバース進化論』を読んで欲しい。伝えたいのはただのゲームじゃなくて「他者とのつながりや生活」を含めたものが「メタバースの本質」じゃないかなってこと。

 たとえば、気の合う友達と(仮想空間の)同じ部屋で楽しく過ごすとか。共通の関心や趣味を持った人同士の集まり、いわゆる集会に参加するとか。歌やダンスのような表現行為を(観る方も含め同じ)仮想空間でやるのも、いかにもメタバースって感じがする。コロナ禍の間にできなかったことを、仮想現実が補完してくれたと思う。

 そんな人間社会の営み、生活の一部にもなりつつあるメタバースだけど、まだまだ馴染みのない人も多い。「結局、メタバースって何ができるの?」なんて声も耳にする。その気持ちはよくわかる、僕自身もそうだったから。ただこればっかりは、実際に自分で体験してみるのが良いと思うんだよね。そしてそれ以上に大事なのは、メタバースに何ができるのかよりも、自分が「メタバースで何をしたいのか」の方で。大袈裟な言い方をしちゃうなら、それは「仮想現実でどう生きるか」に他ならないと思う。

 そんなことを考えていた矢先、「仮想現実での生き方を考えよう」というぴったりな投稿テーマをいただいたので、記事を通して少し考えてみたい。


仮想現実の魅力とは?

 本題に入る前に『仮想現実(メタバース)の魅力』について整理したい。さっき言ったような「誰かと過ごす」「イベントや集会に参加する」のは、仮想現実の楽しみ方の代表例だけど。それだけなら、物理現実(※)だって変わらない。仮想現実にはロケーションを選ばないという利点があるけど、リアルな感覚、情報量という点では、まだまだ物理現実には及ばないしね。

物理現実:物理的な、これまでの現実。仮想現実の対概念。基底現実とも。

 仮想現実の魅力としてよく言われるのは「なりたい自分になれる」こと。かわいくなりたい、カッコよくなりたい、動物やロボットなんかでもいい。違う自分になれる。自分自身を脱ぎ捨てて、自分という檻から解放される。外見だけじゃなく、振る舞いも含めて「好きな自分で生きられる」ことが、仮想現実の一番の魅力だなって思う。

 以前『多様性を考える』というnote投稿企画に参加したとき、僕はこんなことを書いた。

 僕が暮らしているメタバースでは、性別や年齢、容姿、社会的立場も関係ありません。〇〇勢と分類されることはあっても、それぞれが好きなように生きて、好きなように誰かとつながることができます。
 そういう場所だからこそ、本当に多様性のある社会が実現できるのではと期待しています。

メタバースで暮らす/#多様性を考える|とらお (note.com)

 物理現実には少なからず「どうにもできないこと」がある。例えば最近はルッキズム(外見至上主義)なんて言うけど、美醜に限らず、身体の不調や障がいは、自分で選べるわけじゃない。こころの性(性自認)だってそう。色んな悩みを抱えた人でも、なりたい自分になれる、近づけるというのが、仮想現実の魅力であり、可能性だと感じている。

 それともうひとつ。たくさんの「好き」や「想い」が詰まっているのも、素敵なところだと思う。アバターと呼ばれる「仮想現実の自分自身」には、その人の好きな要素がてんこ盛りだし。ワールド、仮想空間の世界観には、制作者の想いやメッセージが込められている。そういう誰かの好きや想いに触れられるのも、仮想現実の魅力じゃないかな。 


仮想現実も変わらない

 そんな風に、物理現実にはない魅力と可能性がある一方で「仮想現実でも変わらない」と感じてしまうことがある。言い換えるなら「好きなようには生きられない」現実が、ここにも確かにあるんだ。

 最たる例はやっぱり、「人間関係のトラブル」で。あの子は好きだけど、あの子は嫌い。嫌いなのに追いかけてくる、好きなのに振り向いてくれないとか。せっかくなりたい自分になったのに、好きなようには生きられない。何でも思いどおりとはいかないもので。

 仮想現実であろうと、僕たちは他者の存在なしには自己を認識できない。かわいくなった自分を誰かが見てくれないと実感できない、満足できない。他者からの承認、とまでは言わなくても、観測してもらうことではじめて、なりたい自分になれたと感じる。

 そういう他者とのつながりが、ほとんど必須要件である以上、どうしても誰かとぶつかってしまったり、離れてしまうこともある。それは物理現実と変わらない。むしろ、なりたい自分になって、好きなように生きようとするあまり、抑えの効かなくなった人間の感情や、踏みにじられる想いなんかを何度も目にしてきた。

 自分の好きな見た目になれるアバターですが、だからこそと言うべきか、個人の内面=人間性を浮き彫りにすると感じます。アバターの姿を借りて、(現実では満たせない、抑圧された)欲求を満たそうとするわけですから。「何を望んでいるか」ほど、その人自身を表すものはないでしょう。

 かわいくなりたい、おしゃべりしたい、表現したい、VRならではの体験をしたい。その機会を提供してくれるのが、VRChatのようなサービスであり、アバターという「もう一人の自分」。とは言え、内面や人間性というのは、ごまかしきれないもの。それはかわいいアバターでも変わりません。

アバターだからこそ/VRChat雑考|とらお (note.com)

 そんなトラブルを減らすため、大抵の場合はブロック等の機能があるし、安心できる居場所を作ろうとか、無償でお悩みを聴いてくれる試みもある。それ自体は素晴らしいと思うのだけど、同時に、なりたい自分になっても、そういうものが必要なところに、人間の本質が垣間見えてしまう。そして、そんな風に思ってしまう「ちっぽけな自分自身」にも、嫌気が差している。

 そう。仮想であっても「現実」なのは変わらなくて。どこまで行っても、「自分」からは逃げられない。雨でびっしょりと濡れた洋服みたいに、肌に張りついて脱げやしなくて。雨をしのげる「居場所」を求めたって、自分が変わらなければ、そんなのどこにもないんだろう。

メタバースでも変わらない|とらお (note.com)

 なりたい自分になるために、仮想の世界に来たけれど。過ごしてやっぱり思うのは、逃れられない己の性分。仮想現実でも、変われない自分がいる。


アバターをどう選ぶか

 ここまで、仮想現実の特徴を見てきたけれど、あまり好き勝手に書くのもどうかと思うので、きっかけとなった「VRライフスタイル調査」にも触れておきたい。
 こちらのアンケート、もちろん僕も回答したけど、なかでも興味深かったのは「アバターの性別」の話。やっぱり、女性型アバターが多いんだよね。

物理的な性別に関係なく「女性型アバター」が使われる
一番の理由は「見た目が好み」だから

 「物理性別とアバター性別」については、思ってたとおりの結果だった。男性型アバターはほとんど見かけない。「深刻な男性アバター不足」なんてよく言うけど、僕自身もあんまり使う気はなくて。どうしてなんだろうね。

 別に「かわいくなりたい」と思ったことはないんだけど、なんて言うと、真剣にかわいさを追求している人には申し訳ないけれど。個人の感想だから許してほしい。まぁそれでも「アバターかわいいですね」って言われると、自分が褒められたみたいで、嬉しくなっちゃう気持ちはよくわかるんだ。

 女性型アバターを選ぶ理由のひとつ「コミュニケーションを取りやすい、自分を表現しやすい」というのも実感している。でもその一方で、かわいいアバターだろうと「何でもうまくいくわけじゃない」とも感じている。

 ではメタバース・コミュニケーションはどうだろう。アバターを介して、なりたい自分になれること。時間や空間、経験や感情まで共有できること。誰かとつながることで、現実では満たせない欲求を満たせるのも確かだ。
 でも、メタバースだって現実だし、違うのはきっと物理的ロケーションと情報量だけ。(中略)
 メタバースだからと言って、別の人間になる訳じゃない。ロールプレイはできるかもしれないが、その人の本質的な部分はごまかしようがないから。

メタバース・コミュニケーション雑考|とらお (note.com)

 ところで「アバターを選ぶとき」みんなどんなことを考えているのかな。かわいいと思ったら迷わず買う。試着してみて、しっくりきたら買うとか。ひとそれぞれだろうけど。もし次回のアンケート項目に加えてもらえたら、面白いかなって思う。僕の場合は「写真を撮りたいと感じるか」いう点が、アバター購入の決め手になることが多い。


VRで写真を撮ること

 写真の話も少しだけ。僕は写真の撮影が好きで、仮想現実で過ごす時間のほとんどでカメラを構えている。ここには「バーチャルフォトグラファー」と呼ばれる人もいて、みんなが思い思いに「自分の世界」を表現している。

 アバターのかわいさ、ワールドの美しさ、絵画のような写真、物理現実の写真と組み合わせた新しい表現。そういう芸術点の高い写真も魅力的だし、何気ない日常の一枚、友達や恋人同士で撮った写真も、素敵だなって思う。

 なかには仮想現実で撮った写真を、物理現実で展示する人もいたりして。最初はちょっと不思議な感じがしたのだけど、観てみるとすごく良かった。

そこでふと思ったのは、仮想空間の写真をわざわざ現実へ持ってくるのは、「どういう心理なのだろう」ということ。
 もちろん、写真展を否定するつもりはなくて。VRの写真を「リアル」で見られるのは、大変興味深い体験でした。ただ「リアル」という意味では、メタバースだって立派な「仮想『現実』」なわけで。どちらもリアルなのにどう違うのだろうと、ぼんやり考えていたのです。
 そこへちょうど、メタバースのことを全然知らない方がやってきて
 「これ、どうやって撮ってるの?」「こんな場所があるの?」
と、矢継ぎ早に、質問を繰り返していました。そんな様子を眺めていたら、「あぁ、こういうことなのかな」と、ひとりで納得して、僕は写真展会場を後にしました。

『メタバース写真展』にて。|とらお (note.com)

 写真というのも、さっきの「なりたい自分」と同じで。他者からの観測、つまりは「誰かが見てくれないと」あんまり面白くないと思う。もちろん、いい写真が撮れたなって、フォルダにしまっちゃう人もいるかもしれない。だけど、やっぱり誰かに見て欲しいと思うんだ。

 一方で、たくさんいいねをもらうために「受けそうな写真を撮る」のは、ちょっと違うかなとも思う。僕はそういう写真を撮る技量もないんだけど。でもそんな風に「撮りたい写真と撮れない写真」という葛藤を抱えながら、もがき苦しむことも、ときに必要なのかもね。「生みの苦しみ」というか。なんて偉そうなことを言ってみる。


仮想現実でどう生きる

 それじゃあ、本題の「仮想現実でどう生きるか」について考えてみたい。

 仮想現実では、なりたい自分になって、好きなように生きられるけれど、何でも思いどおりにはできない。魅力的で可能性があるけれど、物理現実と変わらないところもある。昔の人が期待したような理想の世界ではないし、どこまで行っても「自分」と切り離せない「他者」が存在する。

 誰ともつながりたくないのに、ひとりぼっちはさびしくて。人里におりる飢えた獣みたいに。空腹を満たしてくれる何かを、いつだって探している。誰かで自分を満たそうなんて、どうせ破綻するとわかってる。だとしても、軒先で雨宿りするみたいに、ちょっとだけ温まりたいなんて思ってしまう。

なんにもいらない|とらお (note.com)

 また、仮想現実では何でもできるのに「現物が欲しくなる」のも変な話。僕はVR写真を撮るのが楽しくて、物理現実でもカメラをはじめたけれど。これまでいくらお金をかけたかなんて考えたくない。まぁそれはともかく、どんなに仮想現実が素晴らしくても、ここだけで完結するのが難しいのは、今の技術的限界かもしれない。あるいは、人間の「根源的欲求」なのかも。

 メタバースという「仮想空間」があり、そこで色んなことができるのに。どうしてわざわざ「リアル」でもイベントをするのだろう?(中略)
 だけど今はその気持ちがよくわかります。VRだけじゃなくてリアルでも美しい写真を撮りたいとか。自分の目で見て、手で触れ、所有したいとか。音楽を全身で楽しみたいってのも同じ。そんな根源的な「リアルな欲求」があるから。こうして色んなイベントが開催されるのでしょう。
 「VRか、リアルか」みたいな対比じゃなく。「VRでも、リアルでも」といったお互いを補い合う関係で。体験を共有したり、願いを叶えることができたらいいなと思うのでした。

メタバースとリアルイベント/雑考|とらお (note.com)

 こんな風に、相反する特徴があり、一貫性もなければ、完結もできない。そんな矛盾したところこそ、仮想現実を「現実」足らしめる要素だと思う。だってそうでしょう。物理現実だって、矛盾だらけで、思いどおりになんていかないものだし。人間の感情だって、理屈だけじゃないんだから。

 なりたい自分となれない自分。そんな自己矛盾を抱えながら、悩んだり、苦しんだりしながら、それでもここで生きていく。それがどう生きるのか。具体的な答えではないけれど、生きる心構えとしては、充分じゃないかな。

 冒頭で、メタバースに何ができるかじゃなくて、自分が何をしたいのかが大事じゃないかって話をしたけど。これは言ってみれば「なぜ生きるのか」ではなく、生きることの方から「あなたはどう生きるのか」を問われているとも言える。

 「なぜ生きるのか」という問いに答えるなら、「何かを証明するため」。その何かが明確であれば、いわゆる「生きがい」にもつながるのでしょう。たとえ今は、それが見つかっていなくても。いつかきっと、見つけられる。そんな風に思えたら、素敵ですよね。
 そして、一度証明したら終わりということはなくて。生きている限りは、それを「証明し続ける」のです。まるで写真の構図を、考え続けるように。

 証明したい「何か」は、途中から大きく変わることだってあるでしょう。夢を追いかけ続けていた人が、もっと別の、大切なものに出会うみたいに。論理的ではないし、一貫性もない。でもだからこそ。それがあなただけの「生きた証」になっていく。そういうものだと思いたい。

生きるとは、証明すること|とらお (note.com)

 じゃあ「仮想現実でどう生きるか」を問われているから「特別な存在」にならなきゃいけないのかというと、そんなことは全然なくて。何者かになる必要なんてないと思う。誰も彼もが優しいおじいさんから、キャンディーをもらえるわけじゃないし。

 だからまずは、あなたの望むように、心地よく自然体で過ごして欲しい。苦手な人がいるのなら、距離を置いたっていいと思う。他者とのつながりを含むものがメタバースなのに、つながらなくていいってのも妙な話だけど。
でも、つながらないことを選ぶのも「ひとつのカタチ」で。そして何より、うまくいかない経験こそが、自分にとって価値ある経験になっていくから。

 わかって欲しい、なんて思わない。誰かと分かち合うつもりなんてない。この苦しみは僕だけのもので、この不適応のなかに、自分だけのカタチが、きっと見えてくると信じているから。

メタバースでも変わらない|とらお (note.com)

 それにもしかしたら、気の合う友人ができたり、かけがえのない誰かに、出逢えるかもしれない。そういった大切にしたいと思える「関係性」には、仮想か物理かなんて関係ないのだから。あなたにとって大切と思えるなら、それを大切にして欲しいなって思う。
 ただし関係性っていうのは、相手の気持ちも大切で。自分だけの一方的な想いをぶつけるのは、迷惑行為になっちゃうんだけどね。

 だからこそ、アバターを介したコミュニケーションで親しくなれるのは、本当に気が合う証拠なのかもしれません。これは独りよがりな想いでなく、お互いにそう思える関係に限った話ですが。

アバターだからこそ/VRChat雑考|とらお (note.com)


 ここで暮らす一人ひとりが、自分の願い、そして他者に向き合いながら、自身の生き方を模索していくことが、仮想現実を「より良い世界に」するのかもしれない。最後まで読んでくれて、ありがとう。


撮影ワールド:Amebient /phi16 さん


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