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利き目と利き手の話/原因と意味

 もし望遠鏡を使うとしたら、あなたはどちらの目でのぞくでしょうか。

 利き手があるように、「利き目」もあると知ったのは眼鏡を買ったとき。僕の利き目は右なのですが、視力が低いのも右。それだけ、酷使してきたということなのでしょう。

 他者との関わりなかで「粗探し」をしている。そう思うことがあります。相手の欠点ばかりを見てしまう。何か思いどおりにいかないことがあると、その「原因」を身近な誰かに求めてしまう。それらしい理由をならべては、原因を外部化していると。

 実際、本当に相手のせいという場合もあります。しかしそうだとしても、自分には少しの落ち度もないのか、何かできたのではないかと、振り返ってみることも大切じゃないかと思います。

 そんな偉そうなことを言うのは、原因を外に求めても、根本的な解決にはならないから。きっとまた同じことが起きるから。繰り返したくないなら、原因を「自分の内にも」探してみる。そうして根元から断ち切りたい。

 ただひとつ気を付けたいのは「原因と責任は別物」ということ。例えば、横断歩道で車にひかれたら、事故の責任はドライバーにあります。でももし猛スピードの車が迫っているのに「横断歩道だから、歩行者優先でしょ」と無理に横断したなら。自分にも、原因の一端はあるでしょう。

 原因は自分の内にある。そう思う反面、物事の「意味」は自分の外にしか見出せないと感じます。昔は手の込んだ料理を作りましたが、それは食べてくれる相手がいたから。だけど自分ひとりなら、手間をかけて作ろうなんて思いません。そこに「意味」を見出すことができないから。

 もし自分のためだけに、何でもできるとしたら、意味を見出せるのなら。それは理想的かもしれません。他人に振り回されることがないのですから。でもそんな状態が続くでしょうか。「人」はひとりでも生きられるけれど、「人間」にはなれないと思うのです。

 右手の方が器用に動かせるからと言って、左手が不要ということはない。左手がそっと支えてくれるからこそ、右手は作業に集中することができる。優劣があると言うよりは、機能や役割が違うだけの話。

 右手が痛むときに、それをさすってあげられるのは左手。逆もまた然り。そうやってお互いが補完し合っている。それなのに、強く逞しい右手だけを誇っても、仕方がないでしょう。

 左右の目があるから、人間が”奥行き”を感じ、物を立体的に捉えることができるそうです。どちらが利き目だとか、視力の違いなんて、本当は些細なことなのかもしれません。

 何かを切り捨てるのは簡単なこと。でも失ってはじめて、かけがえのない自分の一部だったと気付くこともあります。組織や社会でもそう。構成する一人ひとりが、細胞の一つひとつ。両手であり両目だとしたら。自分自身を不用意に傷つけたりはしないはず。

 右手のように活躍することはなくても。いつもそっと支えてくれている。そんな風に考えられたら、お互いに少しずつ、優しくなれるかもしれない。そう思ったわけです。――そのための左手。


撮影ワールド:Scope/Kakulity さん

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