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ゲーム感想 RPGタイム ライトの冒険

 少年の頃に置き忘れていたもの。

 ゲーム業界を揺るがすほどの話題になった……かなぁ? あのゲームでついに遊んできましたとも! そのタイトルは『RPGタイム!~ライトの伝説~』。
 本作の発売は2022年だが、2018年のインディーズイベント「BitSummit」で最初に発表された頃から話題になっていて、センス・オブ・ワンダーナイト2018でBest Audience Award賞受賞、Best Art Awrd賞受賞、Best Presentation Award賞受賞。同じ年の東京ゲームショウ2018年メディアアワードでインディー部門大賞受賞。その後も世界中のいろんなインディーズイベントを巡ってきたが、世界中で注目され、様々な賞をもぎ取ってきた。発売前からすでに世界中で「伝説」になっていた凄い作品だ。
 私も2018年の東京ゲームショウでこの作品の存在を知り、その時にブログに取り上げた記憶がある。当時は動画が1本公開されただけだったが、ブログに取り上げないでいられない魔力があった。
 2022年、満を持して発売されたが、その後の評価は極めて高く、第25回IGF Awards最優秀ビジュアルアート賞、日本ゲーム大賞2023ゲームデザイナーズ大賞受賞。
 とにかくも発売前からこの作品は伝説になっていて、発売後も特異な存在感を放つ作品となっている。
 さて、そんなゲームを実際遊んでみるとどんな印象になるのか……詳しく掘り下げてみよう。


 その日の放課後。授業が終わると、親友のケンタ君がパタパタと僕の机にやってきた。 「おーい! やっと放課後だね! なにして遊ぶ? グラウンドでサッカー? 体育館でバスケ? それともこれかな? ジャジャーン! ノートRPG『ライトの伝説!』! やっぱりこれだよね。ノートRPG『ライトの伝説!』! レッツRPGターイム」

 こうしてケンタ君が作ったRPGが始まるのだった……。


 普段のゲーム画面はこんな感じ。物語はあくまでも机の上。ケンタ君の描いたノートの中のみで進行する。机には鉛筆による落書きが一杯施されているが、よくよく見るとすべてゲームに絡んだウインドウ画面になっている。

 例えば画面左上のメジャー。ただのメジャーではなく、これが「ライフ」になっている。

 机に「LOCK」と描かれているエリアにも次第に色んなものが置かれるようになっていく。画面左側のLOCK部分にはフードメニュー。Nintendo Switchの場合、-ボタンを押すと、回復アイテム一覧画面に遷移する。

 画面を見ればわかるが、絵は完全に「子供の絵」。ノートに濃いBの鉛筆でグイッと描かれたようなイメージになっている(制作初期の頃は本当にBの鉛筆で描いていたらしい)。
 しかし描かれているものはどう見ても子供ではない。例えばこのシーン、画面に描かれてるキャラクターがすべて動く! こんなの、子供に描けるわけがない。一見して「まるで子供が描かれたよう」……に見えるけど、しかし「こんなの子供に描けるわけがない」……というのがこの作品。「子供のような感性」の大人が作った作品だ。

 女の子キャラがやたら可愛い……というのも子供感覚じゃないよね。小学生くらいの子供は「可愛い女の子」に興味はまったくないはず。あったとしても男の子コミュニティには異性を避ける特殊文化があるから、隠すはず。

 もう一つの注目ポイントは「作り込み」。一見して子供が作った素朴な雰囲気の作品だが、しかしある場面では作り込みがとんでもないことになっている。

 例えばこちら。このゲームの説明書。
 ……ごめん、ケンタ君、ちょっと引いたわ。

 その説明書を開いたところがこちら。説明書の中が「ゲーム」になっている。
 これがこの作品の大きなポイント。すべてがエンタメになっている。説明書のなかもすべてエンタメ。ゲームの進め方、キャラクターの紹介、世界観の説明……よくあるゲームではただテキストで書かれているだけ……のところも、すべてエンタメになっている。

 もう一つのポイントは、ゲームの進行はずっと「ケンタ君」という少年との対話になっていること。よくあるゲームでは、こういう説明は、物語の外にいる誰かが語りかけてくる……という感じになるかもしれないが、この作品の場合はずっとケンタ君という少年。ケンタ君という少年がある意味、この作品において最重要キャラクターとなっている。
 ここにどんな重要な意味が隠れているかというと、全ての要素が「ケンタ君の語る物語」の中にいる……という実感があること。普通のゲームだと、たとえばゲームの設定画面とかは、無味乾燥な、そのゲームという“物語の外”に一回出るような感覚がある。『RPGタイム』の場合は「すべてが物語の中」。ケンタ君の語る物語世界から外に出るということが一回もない……という構造になっている。

 で、このゲームに関する大事なポイントは……実はこの作品、“面白くはない”んだよね。
 例えばこちらのシーン、物語の展開が漫画形式で説明される。その漫画も別に面白くはない。この物語の中で意外な展開や、面白い描写があるわけではない。わかりきった物語がただ描かれているだけ。

 ゲーム的な要素を見てみよう。このゲーム、実は「一貫したゲームの仕組み」というものがない。バトルシステムはこんな感じに、敵の弱点を見付けて、スティックでスラッシュするだけ。これが唯一この作品全体で一貫したバトルシステムではあるのだけど、しかし物語が進んでもこのシステムの発展系と呼べるものが出てこない。
 この仕組みからさらに要素が複雑になったり、難易度が上がったり……ということもない。ゲーム的な面白さが進行につれて大きくなっていく、という要素がない。こういうところも、ごく普通のゲームのセオリーから外れている……といえる。

 引っ掛かりどころといえば、回復アイテム。作中、回復アイテムが一杯出てくるのだが、実は最後まで1回も使用せずに終わらせることができる。というのも一度ゲームオーバーになって、復活するとライフも全回復した状態から再開されるからだ。
 回復アイテム使う必要がない。ただのコンプリート要素となっている。

 それで「総評」としてのこのゲームはどうかというと……すごく楽しい!
 さて、これはどうしたことか? 個々の要素をみると、この作品は別に特別際だったことは何一つしていない。斬新なゲームシステムもなければ、物語の展開が面白いわけでも、新しい何かを提示しているわけではない。感動できるというわけでもない。
 しかし楽しかった。面白い要素はなに一つないのに、やっていると楽しい。この世界観に気持ちが入っていく感覚がある。これはどういった現象なのか……解析は可能なのか? 再現性は可能なのか? 私も一応作り手であるから、そういうところからこの作品を考えていかねばならない。

 この謎を解明するためには、「物語」の原型である「語り物」とは何か……という話から始めなければならない。

 物語――といえば現代ではこうして文字として描かれたものや、映画として上映されるもの、ゲームの中で語られるもの……つまり“あらかじめ作られているもの”を見ることである。しかし、もともとは語り部のお爺ちゃんお婆ちゃんが人々を集めて、語り聞かせるものだった。
 アイヌ民族ではお祭りの時になると、語り部のお爺ちゃんが屋敷に招かれて、人々にお話を語って聞かせる。明かりは囲炉裏の炎のみで、拍子木を持っている人達が語りに合わせてトントンと叩いてリズムを作ったりする。語り部のお爺ちゃんは集落に住んでいる人の場合もあるし、お祭りの時に招かれることもあるし、旅をして物語を集めて回っている人……も当時いたようだ。柳田国男がおぼろげな記憶として記しているものがあるのだが、柳田国男が幼少期の頃、物語を集めて旅をする修験者らしき人と会ったことがある、という話を残している。
 そうした語り部のお爺ちゃんは、あらかじめ用意しているお話しを語って聞かせるわけではない。集まっている人の顔を見ながら、話の展開を刻々と変えていく。なんならお話しが始まりと終わりでまったく変わっていることもある。こういう時のために、語り部は数百というストーリーパターンを頭に入れて、その時々で色んなお話しに切り替えることが可能だった。
 こういうものが元々の物語の在り方だったといえる。物語はアドリブで、その時々のタイミングを見て変えていく……そういうライブ感のあるものだった。
 現代は物語と言えば“あらかじめ作り込んだもの”を再演する……という方式に変わっている。これは物語がとことん高度に発達してしまったために、アドリブやライブ感よりも、物語としてのまとまりや、いかに洗練されているかが競われるようになったからだ。
 こうしたアドリブやライブ感が重視された物語は現代では死んだのか……というとそうではなく、週間漫画誌では意外とこのアドリブやライブ感が重視されていた。最近は少なくなったが、昔の週間漫画は物語の展開がいい加減で、死んだはずのキャラクターが復活したり、謎の奇跡が起きて戦いに勝利する……みたいな展開が一杯あった。あれこそアドリブとライブ感の物語で、その時々の読者の反応を見て、16ページという短いページ数でいかに面白くするか……が重視された結果だった。それを漫画単行本で見ると、ツッコミどころだらけになる……というのは仕方ないこと。そもそも単行本で読むという想定で作られていなかった。
 最近は週刊漫画ですら、後で単行本で読むことが前提とされ、“あらかじめ作り込んだもの”が重要視されるようになった。かつてのようにライブ感やアドリブが重視される漫画は、今では死滅状態になっている。アドリブ重視だったからこその「面白い漫画」は今や忘れられつつある。雑誌媒体がいまいち盛り上がらないのは、そういうところにあるんじゃないか……と私は少し考えている(単行本で読むという想定で描かれた漫画が、16ページ前後で面白くなるわけがない)。

 それで本作『RPGタイム』を見ると、もちろんゲームだから“あらかじめ作り込んだもの”をただ再生しているだけに過ぎない。しかし物語を進行してると、あたかもケンタ君がその時々のアドリブで物語を語っているように感じられる。もちろんそれは擬似的なものだけど、そういう臨場感をうまく作り出している。
 画面を見ると、小学校の机で、物語はノートで展開していく……これらが「舞台装置」として語り部の臨場感を増幅させる効果を発揮している。語り部のケンタ君がこの作品において、とんでもなく重要であることがわかる。

 それを実現させている一つのポイントは「抽象度」の高さ。
 例えばこちらのシーン、洞窟の中に流れる川が、次第にものすごい急流になっていく……! これを表現するために、なんとノートを斜めにしている。
 やっていることが実に子供っぽい。子供らしい自由度の高さを感じさせる。

 「抽象度」とは何か……一番シンプルに示された概念図がこちら。
 抽象度が下がるとリアルになる。抽象度が上がると漫画絵っぽくなる。抽象度とはだいたいこういうものだと理解してもらえればいい。
 表現の世界において、抽象度は高ければ高いほど自由度が上がる。あり得ないような描写も、抽象度が高ければ成立する。しかし抽象度の高い表現は説得力に欠く。現実的に感じられる表現を目指すためには、抽象度を下げていかねばならない。この抽象度のバランスが破綻すると、その物語から現実味や説得力が喪われていく。

 抽象度を上げていくと独創的な表現もうまく成立するようになる。その一例が『アンパンマン』。『機関車トーマス』も当てはまる。あんパンが頭のヒーローが空を飛んでいる……こんなあり得ないようなストーリーも、抽象度が高い状態であれば成立する。
 しかし『アンパンマン』は抽象度を少しでも下げてしまうと、(つまりリアルに考えてしまうと)成立しなくなってしまう。抽象度下げると「パロディ」になる。『アンパンマン』のような作品は、抽象度の高い表現の中でしか成立しない。

 そこで『RPGタイム』の話に戻ると、この作品ではずっと抽象度が高い。抽象度を上げて、あたかも「子供が作ったかのような世界観」の実現に成功している。
 しかし抽象度の高い世界観というのは、説得力の高さとは両立しない。この作品の場合、どう作っているのか。

 そこで活きてくるのは「舞台装置」。ノートの中に描かれている物語は抽象度の高い表現で描かれるが、その周辺に作られている舞台装置は結構リアル。
 まず舞台は机の上。物語はノートを開いたところ。ステータス画面はケンタ君がビーズで作ったもの。ライフはメジャー。音楽はスマートフォンを横に置いている……ということになっている。
 物語の世界において、時々突っ込まれるのは「この物語はどこから鳴っているのか?」という疑問。現実の世界に音楽なんぞないはずだ(映画の照明もそうだ。「この光はどこから射してるの?」という突っ込みがある)。では映画の中のBGMはどこから聞こえているのか? この問題について、映画を観ている人も作っている人もスルーする……ということになっている。『RPGタイム』は多くの物語でスルーされるところにすべて説明を付けている。そういう意味で舞台装置そのものはリアルだといえる。
 すでに書いたように、『RPGタイム』はケンタ君の語りの世界から外に出る……という瞬間がない。例えばゲーム設定を変えるとき、普通のゲームでは一回ゲーム物語の外に出てしまう。『RPGタイム』はそういう瞬間が一切ない……そういう配慮がなされている。  その舞台装置の中でケンタ君が語っている……という前提を持たせているから、この物語が現実感あるものとして感じられる。
 そういう背景の下で物語が掘り下げられているから、物語の中であり得ないような描写があったとしても、「これはケンタ君の語る物語だから」……と思うことができる。そういう物語を受け入れる姿勢ができている。そういう「空気作り」が非常にうまい作品だ。
 私はさっきから「ケンタ君」と呼んでいるが、ケンタ君はもちろん架空だが、あたかも実在人物のように感じ、語っている……というのも一つのポイントだ。ゲーム中登場人物である「ライト」はあくまでも架空だが、ケンタ君はそれより一歩上の存在として認識されるように作ってある。

 その上に、この作品特有の「エンタメ」が乗っている。
 『RPGタイム』はゲーム的に、物語的に面白い要素はまったくない。しかしこの作品のエンタメはそこではない。この物語の中では常に「おかしなこと」が起きる。いつもすこし展開が捻っている。変なことが起きている。面白くはないが「単調」ではない。数分おきに「おや?」という一捻りが入っていて、これがささやかな楽しみに繋がっている。
 その背景にはいつもケンタ君という少年がいる……なぜだか私たちはそれを信じてしまっているから、「子供の考えることだから」と妙に微笑ましいような気持ちになってしまう。しかも『RPGタイム』で描かれるもの、というのが本当に子供が考えたように感じられる。よくもここまで「子供っぽい」作りができるものだ……と感心するレベルだ。

 さらに、この作品における、ある意味の「狂気」的なところ。「説明書」自体がエンタメになっていたように、この作品ではあらゆる場面でエンタメになっている。ゲームはある時、ゲームを進行させること自体が作業的になる場合があるのだが、『RPGタイム』にはそういう瞬間がほとんどない。ずっと何かしらのエンタメが仕掛けられている。
 たとえばこちらのボス戦。なんと『TANK TIME』というまったく違うゲームが始まってしまった。
 最初に書いたように、このゲームには一貫したゲームの仕組みというものがない。その時々でガラッと変わってしまう。こんなふうに違うゲームが始まってしまう……ということも珍しくない。
 こんなふうに刻々とゲームの内容が変わっていく。「ミニゲームが一杯」というゲームとも違う。そもそも一貫したコンセプトがゲームの中にない。ゲーム構造も世界観構造もデタラメだ。しかし最初に「抽象度の高さ」が提示されているから、これが表現として破綻することがない。
 あたかも語り部が、集まってきている人達の表情を見ながら、アドリブで物語を次々と変えていくみたいに、ゲームの仕組みまで変わっていく。
 それで、その中身はというと、実はさほど面白いわけではない。クオリティが高いわけではない。しかし進めているとケンタ君の語りにすっかり飲まれて楽しい気持ちになっている……という状態になってしまう。

 信じられないが、これもボス戦の一つ。本当の意味で“何でもあり”が起きている。こういう物語が通用するのも、抽象度が高い世界観だからこそ。

 もう一つ、ゲームと物語の関連性について深掘りしておきたいのが、ゲーム世界における“展開”について。

 よくあるゲームでは、ゲーム的な展開といえばボス敵の攻撃方法が変わるとか、難易度が上がる……といったところにある。ボスとの戦いの中で、「物語的な展開」というのはあまりない。なくはないけど、そういう仕掛けのある作品は少ないし、業界的に重要視されていない。ゲーム的な戦いの中で「ドラマ」が表現されることはほとんどない。
 私のおぼろげな記憶で話すが、……スーパーファミコン時代に『アクスレイ』というシューティングゲームがあったのだが、最後の戦い、ボスを撃破し、フィールドが崩壊していくなかで、ラスボスの残骸が追いかけてくる……という展開があった。このボスに遭遇したとき、私ははっきり「物語」を感じた。この時代だからキャラクターはいないし、ボイスもないけれども、間違いなく「物語の中にいる」という感覚があった。そういった感慨をもたらしてくれるゲームは少ない。
(昔の記憶なので、違うタイトルだったかも知れない……。たしかコナミのシューティングだったと記憶しているのだが……)

 もう一つ、「物語的な展開を感じさせるゲーム」といえば『ワンダの巨像』。巨象に跨がり、攻撃を加えようとすると音楽が変化する。その瞬間、緊張感が高まる。

 しかし『RPGタイム』は……というと、常に何かしらがある。ボス戦も、普通にボス戦というものがない。常に「物語の展開」がある。といっても、プレイヤーに攻略法を考えさせたり、ボスとの戦いに集中させたり……というやり方を採っていない。常に「物語」ありきで進行する。そういう仕掛けとして作られているので、ずっとケンタ君主導の物語を体験している……という感覚の中にいる。
 その一方で犠牲になっているのが「ゲーム性」。ゲーム的な面白さ、つまりボス戦に“駆け引き”があるか……というと、そういうものはない。すでに書いたように、ゲームオーバーになっても、すぐに復活できる。回復アイテムを使う必要もない。

 簡単にゲームオーバーになるのだけど、ご覧の通り、そのシーンの攻略法はこうやって画面左下にズバリ書かれちゃっている。「この場面はどうやって攻略すればいいのだろうか……」なんて考える必要がない。「ゲームを解く面白さ」というものがこの作品には一切ない。

 こんなゲームを遊んでいて、ふと思うのは、ゲームというものはそもそもこういうものだったんじゃないだろうか……ということ。ゲームはゲーム自体を楽しむもの。これは正解だ。その通りだ。
 ではそのゲームから世界観やキャラクターというものを剥ぎ取ったらどうだろうか。ゲーム自体は同じものでも、そのゲームを楽しいと思えるだろうか?
 私たちはゲームを攻略していく過程でなにを感じているのか。それは「物語体験」ではないか。ゲームに深く集中しているとき、プレイヤーの脳内ははっきりとそのゲームが描く物語の中にいる。「脳内で物語が動いている」という感覚になる。その体験を通じて、ゲームをクリアしたときに感動する。ゲームに難易度というものがあるのは、難易度に変化がないとそういう気持ちが入りづらいからだ。
 プレイヤーはゲームを始めればいつでも簡単にゲームの世界観に没入できるわけではない。追い詰められ、じっと集中力が高まっていくとき、“意識がゲーム世界に入る”という状態になる。そのためには、難易度という設計が必要なのだ。
 『RPGタイム』はゲーム的な面白さはない。その代わりに、もっと愚直なやり方で「物語」を感じさせる仕掛けを作り上げた。まず第1に「ケンタ君」という語り手。次にそのケンタ君が常に何かしらの仕掛けをやってくれること。ボス戦でも、普通にボスの攻撃パターンを攻略して撃破する……というパターンではなく、いや実体ではそうなんだけど、そこで常にケンタ君が喋って何かしらを仕掛けてくる。そうやって「物語の中にいる」という感覚を演出している。
 『RPGタイム』は「ゲーム物語の在り方」を提唱した作品とも言えるけども……逆に言うと、どうして誰もこういう仕掛けを思いつかなかったのか……と不思議に思うところもある。

 ゲームとしてかなり独特な存在感を持つ本作だが、しかし「ゲームとして出来がいいか?」というとそんなことはない。というのも、作り手はおそらく本当に簡単なコードしか知らなかったんだろうな……と感じさせるところが多い。
 例えばこういうシーン。画面上のどこかに隠れている忍者を探そう……という場面だが、ゲーム的な仕掛けといえば非常に単純。数行のコードでこのゲームは成立する。ゲーム全体を通しても、たいだい数行のコードで成立しそうなゲームしかない。

 おや……と感じたのがこの場面。画面上に「階段」がある。普通のゲームの場合、階段のところまで行くと、キャラクターは階段の絵に合わせて上へと上がっていく。ところがこのゲームの場合、平面に進んで行く。階段を登るときは十字キーを左斜め上を押さなければいけない。
 これはあくまでもノートに書かれている物語である……といえばある意味リアルな設計ともいえなくもないのだけど……。こういう「地形に合わせたキャラクターの動き」というものが作られていない。やっぱり簡単なコードしか知らなかったんだろうな……という気がする。
 この場面に限らず、移動できるエリアというのは基本的に平面。複雑なプログラム設計なんかされてなかったんだろうな……と感じさせる。
 制作者プロフィールにも「最低限のプログラムしか書けない」……と堂々と書かれている。それは本当なんだろう。

 途中、魔法学校へ行く展開がある。そこで「旅の仲間」たちが登場してくる。どのキャラクターもなかなか個性的なのだけど……残念ながらほとんど深掘りされることがない。

 唯一、この彼だけが主人公ライトと共闘する展開がある。
 ということは、この後、キャラクターたち一人一人主人公と共闘する展開があるのかな……と思いきや特にない。そういう展開が来る前に、物語の方が完結してしまう。
 こういうところで物語的な展開の甘さというか……。全体像をうまく設計しきれていなかったんだろうな……というところが見えてしまう。

 せっかくこんな可愛いキャラがいるのに……深掘りされなくて残念!

 と、いろいろ書いたけれども、やっぱりこの作品最大の美点はこの世界観。小学生の子供が友人相手にノートに書いた自作のゲームを遊ばせていること……にある。
 たぶん、ごく普通に暮らしている人達にはピンとこない話かも知れないけど……クリエイターをやっている人はみんな覚えがある。子供の頃、ノートに自分オリジナルの作品を作って友達に見せていた。オリジナルの漫画だったりキャラクターだったり……。大人になってクリエイターをやっている人はみんな覚えがある。
 その時の思い出を、気持ちを、この作品は喚起させる。それだけではなく、子供では絶対に作り得ないような、異様な密度のゲームを作っている。

 ノートの中に描かれている物語は、小学生が鉛筆で描いたようなものでしかないのだけど、その周辺の設計はやたらとリアル。
 例えば机から視線を上げると、こんな世界になっている。ケンタ君、頑張ったな……。見ているとわかるけど、みんな厚紙で作った……という見た目になっている。厚紙に色紙を貼り付けて、文房具と合体させて……。すべて身近にあるものだけで作っている。こういうところもやたらとリアル。
 この作品の場合、むしろこっちの世界観が軸になっている。ノートの中の物語はまったくのデタラメに進んで行くのだけど、机の周囲の世界観は現実に即して描かれている。こういうところでバランスが取れている。ケンタ君の物語が破綻しないのは、こういうところにある。

 こういったところも、今クリエイターをやっている人から見ると「うわっ」となる。子供の時の気持ちが戻ってくる。
 しかし本当の子供の頃には、こんな凄いものは作れなかった。ノートに書いたオリジナル漫画も、ちゃんと完結まで描けなかった。ケンタ君の描いた物語は、どこかあの頃に置き忘れていた無念さを解消してくれるような……。忘れていたものを取り返してくれたような、そんな気にさせてくれる。

 といっても、誰でもこういう感慨になるわけではない。クリエイターを目指したことのある人にしかわからない話。小学生だった人なら誰でも……というわけではない。クリエイターだけがわかるノスタルジー。たぶんこのゲームのビジュアルを見た人の誰もが、そういう気持ちを思い出してハッとしたんだと思う。私もそうだった。
 冷静になって深掘りしてみると、実はこの作品、あまり面白くはない。クオリティが高いわけではない。
 しかしどうしてもこの世界観から目が離せなくなる。どうしてそんな気持ちにさせるのか……というとクリエイターの初期衝動的な気持ちそのものを描いているからだ。クリエイターは誰もが「ケンタ君」だった頃があった。あの時の気持ちを思い出させる作品だった。


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