ジョジョの奇妙な冒険_黄金の風_mv_sp

2019年春アニメ感想 ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風

この記事は、もともとは2019年7月1日に掲載予定だったものです。事情はこちら→ご無沙汰しておりました。

 サン・ジョルジョ・マジョーレ島の教会でディアボロと遭遇した後、ブチャラティ達は「ボスの勅命を受ける特別な存在」から「反逆者」となり、追われる身となった。追われる身になりつつ、ブチャラティ達はボスの正体を探るために行動を開始する。

 ……と、いうのが21話までのエピソード。よくあるアニメではこういう区切りをクールの終わりと合わせてくるのだけど、『ジョジョ』はそういうのを無視して、あくまでも原作準拠でエピソードのタイミングを決めてくる。原作を大事にしているからこそ、というのが伝わって非常にいいところだ。

 これまで、2度にわたって『ジョジョ』について語ってきたので、ここまで来るともはや何も語ることがない。なので今回は、これまでの補足的な内容をちらちらと書いていこうと思う。

 第22話。『ガッツの「G」』。
 ヴェネツィアで一時の休息を取っていたブチャラティ達。レストランで食事をしていると、ふとナランチャはスープの中にサメの背びれのようなものを見る……。

 新たなスタンドが出現した瞬間だ。『ジョジョ』に必ずあるパターンは、新しいスタンドが出現した瞬間、「現象」で見せる。「情報」じゃあない。必ず「現象」で見せる。第22話の場合は、「スープの中にサメの背びれのようなものがふっと出現する」(その直前には、「持っていたはずのスプーンが消失する」という現象が起きている)。24話~25話は冷蔵庫の中に何か音がする……開けてみると肉片がちらちらと置かれているだけ……だけど……。
 その瞬間、なんだ? 何が起きた? そう思わされる。そう思わされる理由は「よくわらかない現象」だから。自分の記憶と照らし合わせてみても、映像体験として似たものがない。『ジョジョ』はそういう“既視感のないもの”をいい具合に突いてくる。
 既視感のない現象を取り上げつつも、話の進行はホラー映画やモンスター映画の文法をうまく取り入れている。モンスター映画にありがちな、「いったい何だ?」「何者の仕業だ?」……未知なる怪物の存在を察知しつつ、正体がわからない不安と期待が入り交じったドキドキ感。これをうまく再現している。
 ポイントとしては「沈黙」。新しいスタンドが現れた瞬間、多くの場合で沈黙の間がある。台詞もなく、音も消えて、無言でその瞬間起きている奇妙な現象を見ている。沈黙するからこそ、読者は身を乗り出して読もうとする。「沈黙」が引き寄せるポイントだ!
(「ホワイトアルバム」のように挨拶もなしに突撃、攻撃を繰り出してくるスタンドもあるので、「スタンド登場時いつも必ず沈黙する」というわけじゃあないが)
 その次に、必ず読者の想定を上回る、ショッキングな瞬間を見せる。20話、教会の最上部を目指すエレベーターの中、沈黙した後、トリッシュがいない……手首だけ! あのえげつなさ。はっきりいえば読者を脅かすためだけの仕掛けだが、しかし毎回会心の一撃を突いてくる。沈黙の後に驚きがあるからこそ、その先へその先へ、どんどん読みたくなる。

 間もなく、スタンドはその性質を明らかにする。22話~23話のスタンド「クラッシュ」の場合、スープやグラスの中を点々と移動する。あいつは水の中を移動するスタンドなのか? 水の近くにいると危ない。
 これを読んでいる時、読者は登場人物と同じ気持ちになって現象を見ている。漫画の絵を見て、読者は登場人物と同じことを考え、“登場人物は読者が思ったことと同じこと”をしようとする。
 第2のポイント、登場人物が読者と思ったとおりの行動を取る。
 やってはいけないことは、読者に「なんでここで○○しないんだ」「ここで○○していたら対処できていたのに。間抜けすぎる」とこう思われちゃあいけない。三流作家がやりがちな失敗は、敵の脅威を伝えるために、登場人物にこれみよがしな間抜けな行動をさせて、負傷したり死んだりすることだ。モブキャラといえども、間抜けに描いてはならない。その人間が起こすであろう行動をさせて、その結果、“最善を尽くしたがやむを得ず殺されてしまう”という展開を見せなくちゃあいけない。
 「登場人物を間抜けに描いちゃあいけない」――というのは、実は私も小説の先生に教わったこと。なぜダメなのか、というと自分が読者の立場になるとすぐにわかる。漫画や小説を読んで苛々する瞬間というのは、だいたい登場人物が間抜けな行動をするときだ。
 が、どういうわけか自分が書き手になると、「自分が読者の立場で許せなかった展開でも、自分が描く側になると許されるような気がしてしまう」のだ。読者の立場になって、作品が描けていない。私もこの罠に引っ掛かり、先生に結構な勢いで怒られた。これから作家を目指す人は、よく肝に銘じて欲しい。
 で、『ジョジョ』の場合。その起きている現象に対して、最善と思われる行動をまずやってくれる。第22話の場合は、「スタンドだ!」と思った瞬間、エアロスミスで攻撃。仲間達に警告を送っている。
 だが、敵スタンドもそう対処されることは織り込み済みだ。スタンド・クラッシュはナランチャの舌を攻撃し、もう1つのスタンドを植え付ける。それは「本当のことと逆のことを言ってしまう」というスタンド――よくよく考えるとどうってことのないスタンドだが、状況が状況だけ非常に厄介だ。なにしろ警告を送ろうとしても、その逆にことを言ってしまう。仲間を救うつもりが、ピンチに導いてしまう。

 第3のポイント、これこそが『ジョジョ』の真骨頂。読者の想定を上回る。
 第23話では、ジョルノが捉えられ、焦るナランチャ。ピンチに追い詰められ、「レーダーのしるしが消えた! しまった! 逃げられた!」と叫ぶ。
 大抵の読者は引っ掛かる。いまナランチャは本当のことが言えないはず。なのに、「逃げられた!」と叫ぶ。つまり、実は「逃げられていない」のだ!
 敵を騙すには、まず読者を。
 第27話『キング・クリムゾンVSメタリカ』では、ドッピオは姿の見えないメタリカを探るために、メスを指先で持ち……相手の能力が磁力であるなら、メスの先端は相手の方向を向くはずだ。この推測を立てて
「そこだ! リゾット!」
 メスを投げる。しかし、
「それをやると思ったよ」
 メタリカはドッピオがやるであろうという行動を想定していた!
 が、ここからが『ジョジョ』の真骨頂。ドッピオはメタリカを狙ってメスを投げたわけじゃあない。実はその向こう、ブチャラティやナランチャがいるであろう方向に投げていた。ブチャラティに今ここにスタンド使いがいて、そのスタンド使いが攻撃したかのように見せかけたのだ!
 ドッピオがメスを使って、リゾットの居場所を探る……ここまでは読者の想定の範囲内だ。読者の想定内ということは、リゾットの想定内ということでもある。読者は、目に見えない相手を探るにはこれしか……と考えるであろう。そしてまさにその通りの行動を描いてみせた。が、その上に「実は……」という2段オチを用意してくる。この瞬間、「やられた!」と痛快な気分にさせる。
 読者の想定を一歩越える……常にだ! だからこそ『ジョジョ』は楽しい。

 『ジョジョ』のポイントは「無敵のキャラクター」が存在しないことにもある。スペック面での「最強キャラ」が存在しない。『ジョジョ第5部』のラスボスであるキング・クリムゾンは圧倒的な力を持っているが、無敵の存在ではない。キング・クリムゾンとはいえ近接パワー型タイプのスタンドに直接殴られたらやられてしまう。どんなスタンド使いでも、無防備な状態で接近されたらその瞬間終わり。どちらも接近させないこと、が重要になっている。だからこそ、『ジョジョ』では頭脳戦が重視される。

 『ジョジョ』にはいわゆる「イヤボーン」現象がない。「イヤボーン」とは、魔法少女もので主人公が覚醒するとき、必ず追い詰められて「イヤーァァァ!」と叫んだ後に「ボーン!」と能力が覚醒して魔法少女に変身する。だから「イヤボーン」と呼ばれている。
 「イヤボーン」は魔法少女ものに関わらず、バトル漫画では非常に多い展開だ。主人公が敵に追い詰められて大ピンチ……そこで突如未知の力が覚醒して……。(広瀬康一のような例外もいるが)
 こういう時、「敵」は純粋に「敵」というより、主人公の葛藤を乗り越えるための「障壁」として描かれる場合が多い。「敵」というより、キャラクターの形をした「シンボル」的なものになる。
 でもこれはいけない。なぜらな予定調和的になるから。どうせここで追い詰められて、なんだかわからない能力が覚醒するんでしょ……ってだいたいその通りの展開になる。そういう展開、さんざん漫画を読んできたから飽きているし、なにより純粋に「駆け引き」としての戦いではない。主人公の成長物語であって、バトル漫画ではない。
 『ジョジョ』の良さは駆け引きとしての面白さ。敵であっても、知恵を働かせて、罠を潜り抜けて這い上って主人公達に対して、汗を掻いて抵抗しようとする。だからこそ、敵であっても最終局面に来た頃には健闘を称えたい気持ちになっている。見た目が格好いいからという話ではなく、敵も汗を掻いて知恵を出し切って戦うからこそ、『ジョジョ』のバトルは熱い。

 『ジョジョ』は個性の固まり、個性そのもののような存在で、あまりにも独創的な絵とトリッキーな展開でついつい見落としがちだが、実はやっていることは超王道・超正統派。
 どう描いたら読者は驚くか。どう描いたら読者が騙されるか。どう描いたら読者の想定を上回るか……。『ジョジョ』は特別な魔法は一切使っていない。物語創作教本に書いてあるような基本の基本をきちんと積み立てた上で描いている。上に書いたようなポイントも、別に不思議なことはなにも書いていない。全部、教本に書いてあるようなことだ。
 問題なのは、誰もこの基本を守らず、読者がガッカリするであろう展開を書いてしまっていること。「自分が読者の立場であったときは許せない展開を、自分が描き手の立場になるとなぜか許されると思ってしまう」という失敗をやらかしてしまっている。(ええ、私もよくやるさ……なぜか「創作をしている自分偉い」と勘違いするんだ)
 でもきちんと「基本」さえ守れば、ここまで面白い作品が描ける。『ジョジョ』はそのお手本にもなる作品だ。

 話題を変えよう。
 『ジョジョ』にはある種の不気味さがあって、それが魅力の1つとなっている。
 今回の『ジョジョ』で気味が悪いと思ったのは、ディアボロの存在。その来歴。
 ディアボロは刑務所に服している女性の腹から生まれたが……しかしなぜ生まれたのかよくわかっていない。刑務所の中で当然ながら男性との接触はない。男性と性交したのはずっと前、刑務所に入る前だ。
 まるで「逆イエス・キリスト」のような始まり方。特別なキャラクターの物語は異常出生から始まる。どんな物語でもそうだが、こんな不気味な始まり方はそうそうない。
 生まれた子供は成長し、ドッピオとして平和な日々を過ごす。
 ある時、育ての父親が自宅の床を掘っていると……出てきたのは女性の掌。なんだ……と床を剥がしてみると、そこにいたのは生きた女性――ディアボロの母親だ!
 ここも気味が悪いポイントだ。なんで母親を床に埋めていたのか、しかも生きた状態で。何も説明されていないし、理屈も付いていない。解説がないまま、状況だけが進展していく。
 物語は予定調和であってはならない。既視感があったら、数ある作品の群れに埋没するだけだ。単にホラーちっくというだけではなく、それを越えたもの、それを描写することで気味が悪いと感じられること。恐怖描写でも、「これ、なんかで見たな」と思った瞬間、白けてしまう(『ジョジョ』はわりとホラー映画オマージュを使うけども)。ホラーは案外慣れてしまうものだから、「よくある恐怖描写」を越えなければならないが、『ジョジョ』はいつもそれを越えてくれる!
 こういうところでホラーの文脈を持ってくるのは、荒木飛呂彦先生の好みによるものだと思うが、想像を越えて怖い、と思う瞬間があるからこそ、人を惹き付け続ける。怖い、気味が悪い、と思えるからこそ、相対する敵の脅威が伝わってくる。これがそのまま、バトル漫画としての面白さに繋がってくる。倒すべき敵は不気味で恐ろしいものであったほうがいいのだ!

 私の予想。
 なぜドッピオは母親を地面の下に埋めていたのか? これは単純に、この時のディアボロにはすでに自分の来歴を隠そうという考えがあったからじゃあないかと思う。そのわりには、行きずりの女と無防備に性交して子種を残してしまう、という失敗を犯すのだが……。誰だってあふれる性欲で失敗を犯すものだから、追求しないでおきましょう。
 私の想像では、あの時、女性と性交したのは「ディアボロの意識」ではなく、「ドッピオの意識」だったんじゃあないだろうか。「ディアボロの意識」はその時どうしていたのか……眠っていたのかわからないが、感知していなかった。だからディアボロはドッピオがその時性交していたことを、長らく知らず、トリッシュの存在も思い至らなかった。ある時ドッピオが「あの時の女性とセックスしたんだ」告白して発覚した……そんなことあるのかどうかわからないが。
 で、もう1つの想像としては、ディアボロは胎児の状態からすでに“意思”を持っていた。いや、この表現じゃまずいな。おそらくディアボロは、その父親の意識とも繋がっていて、その父親、その父親の記憶と意思をずっと継承している……というやつではないか。そしてドッピオと人格が分裂しているが、あの時生まれた子供としての意識はドッピオであって、ディアボロとしての人格はその父親からずっと受け継いだものじゃあないだろうか。
 胎児の段階からすでにディアボロの意識は覚醒していて、刑務所にいた母親が突然出産体勢に入ったのは、“どこかでディアボロが死んだから”じゃあないだろうか。この場合は母親と性交した男のことだ。この男も、“ディアボロ”だった。その男が死んだから、ストックとして保険として保存していた女の胎内に残していた子種が一気に覚醒して、出産した。
 ディアボロはおそらく特別な血筋で、血族はすべて意識が繋がっている。だからトリッシュとも繋がっている。トリッシュを恐れるのは、そういう特別さゆえ……なのではないか。しかもトリッシュは(たぶん女だったから)、ディアボロとしての記憶と意識を継承していない、イレギュラーな存在だ(あくまでも想像だが……ドッピオとして性交したからじゃあないだろうか)。
 といっても、これが正解なのかどうかもよくわからない。なぜなら、正解が示されていないからだ。もしかしたら人間ですらない……人間にとてもよく似た化け物だった可能性もある。
 ディアボロはどこかの女性の腹にやっぱり自分のストックを残していて、自分が死んだときに覚醒させたのかも知れない。
 結果として、ディアボロは最後の最後まで死なない……死ねなくなったのだが。これが解決法として最良だったのかも知れない。

 またまた別の話題。
 『ジョジョ』の「オラオララッシュ」は(第5部は「無駄無駄ラッシュ」)、週刊少年ジャンプに継承される、由緒正しき連打技だ。『北斗の拳』の北斗百烈拳。『聖闘士星矢』のペガサス流星拳。『ワンピース』のゴムゴムのガトリング。ジャンプのバトル漫画主人公は伝統的にこの連打技を継承し、習得してきた! ジャンプ漫画の主人公がはじめに習得しなければならない必殺技……必須項目のひとつである!
(※ ラッシュを習得していない主人公もわりといる。絶対に必須ではない)
 連打技は作画としてのインパクトが大きい。1つのコマに猛烈に描かれるパンチの数に大袈裟に描かれる漫符、必殺技の台詞! その一コマだけで格好いい!
 ただ、『ジョジョ』の場合、ラッシュはどちらかといえばクライマックスで使用される場合が多いように感じられる。『ウルトラマン』でいうところのスペシウム光線。『水戸黄門』でいうところの印籠。最後の最後、キメという瞬間で使われる。
 これは正解だと思う。なぜなら『ジョジョ』のバトルは頭脳戦がメイン。緊張感がずっと続く中で、最後の最後で「無駄無駄無駄無駄無駄無駄!」という掛け声とともに猛烈なパンチ、猛烈なエフェクトが出現する。これまでのストーリー上のストレスがこの瞬間、いっきに吹き飛ぶ。痛快も痛快。ラッシュが来る度に、見るほうは絶頂する。『ジョジョ』のラッシュが気持ちいいのは、バトルのラストのラスト、締めの一番いいところで使うからだ!
 合理的な理由を考えると、『ジョジョ』は基本、「無防備状態で接近されたら負け」のバトル。敵スタンドは接近されないように注意を払う。しかし接近し、間合いに入ることができたから、とどめとしてラッシュを使っている。
 ともあれ。おそらく作者側もラッシュが最高に気持ちいい、ストーリーが抱えるストレスを一瞬で吹き飛ばす効果を持っていることに気付いてるはずだ。

 第31話『グリーン・ディとオアシス その2』ではシリーズ最長となる30秒を越える「無駄無駄無駄無駄」が披露された。見事な作画だったし、演技も見事だった!
 思えば第3部の時にも異様に長いラッシュが披露されたことがある。
 第3部16話~17話『恋人(ラバーズ)』に登場したスティーリー・ダンだ。史上最弱のスタンドだが、相手の胎内に潜り込み、内部から攻撃する。スティーリー・ダンはこの方法を使い、ジョセフを人質に取り、条太郎を脅迫する。シリーズ屈指のクソ野郎だ!
 そのラスト、当時史上もっとも長い「オラオラオラオラオラオラオラ!」が決まり、戦闘不能。サイコーにハイになる瞬間だった!
 もしかするとだが、『ジョジョ』は敵がゲスであればゲスであるほど、ラッシュが長くなるのかも知れない。第5部チョコラータも出てきた瞬間から気持ち悪かった。来歴が想像絶するクズだった。
 それがラストで猛烈な「無駄無駄無駄無駄」ラッシュ! これ以上ないくらいスッキリした!
 これはやっぱり、『ジョジョ』のラッシュは気持ちいい。ストーリーが持っているストレスを引き受ける力があるという自覚があるからじゃあないだろうか!

 絵について少しだけ。
 シリーズが始まった当初は、線の力強さに対して、背景が普通すぎるというのが気になっていたが、最近はほとんど気にすることはなくなった。慣れたんだと思う。
 というか、最近のアニメ中の絵がまるで優れたペン画のように見えて、ただただ「格好いいなぁ」「線の流れがセクシーだなぁ」とうっとりと見ていることのほうが多い。最近は「ジョジョっぽい絵」ではなく、本当に「ジョジョの絵」になっている。ジョジョらしい格好良さ、セクシーさを完全に会得しているような気すらする。キャラ画が極まってきたから、背景も気にならなくなったんじゃあないか。
 ジョジョの絵というと、よく「変なポーズ」ばかりが注目されるが、私は思っているのはセクシーさだ。荒木絵は色気があるのだ。もしも私のような3流絵師が荒木絵を真似しても、ただの「変なポーズ」にしかならない。色気が宿らない。あの線だからこそ、あのケレン味と色気が出てくるのだ!
 注目のポイントは背中。
 『ジョジョ』は背中を描写するとき、背中を少し丸めていることが多い。荒木先生の手癖なんじゃあないかと思うが、こういった丸めた背中は描くのが意外に難しい。背中の立体感や動きは、なかなかうまく描けない。
 ところが、『ジョジョ』に出てくる背中はものすごく格好いい。丸めている背中が、「みっともない猫背」ではなくて、野性的な色気が現れてくる。線の流れ1本1本が有機的な力を持っているように感じられ、説得力と存在感がある。いい背中画が出てくると、ついつい一時停止を押して、じっくり眺めていたくなる。

 『ジョジョ』も3クール目。ついにクライマックス。ディアボロとの戦い。あの無敵の「キング・クリムゾン」をいかに打ち破るか。打倒の手段を模索するのに、1クールぶんが消費された。壮絶な戦いのエピソードだ!
 特徴としては、敵スタンドが2人組になった。連携の攻撃が非常に厄介。いかにすれば主人公サイドをピンチに、絶体絶命に陥るか、毎回よくよく練られている。それをいかにして突破するか。この緊張感の連続がたまらない。面白すぎて、毎回が楽しみだった!
 それで、結論はいつも同じところにやってくる。荒木飛呂彦先生はすごい! 『ジョジョ』を見る度に、いつまでも「そこに痺れる! そこに憧れる!」という想いを抱いていられる。とんでもない天才だ!


蛇足。
本当は画像も載せたかったけど、新しいPCに変えたばかりで、必要なツールがなく、載せられませんでした。ごめんね。


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