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2019年冬アニメ感想 ジョジョの奇妙な冒険 5 黄金の風

 今期、地上波放送アニメで唯一見ていた作品はこの1本のみ。『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』。やっぱり『ジョジョ』だけは別格の存在で、毎回同じことを書くが『ジョジョ』はグンバツに面白い。『ジョジョ』だけは色褪せないし、擦れることもない。毎週の『ジョジョ』が楽しみで仕方なかった。

 物語は第9話でボスの娘トリッシュを引き受けて、12話ポンペイ遺跡に隠されていた鍵を手に入れる。ここまででブチャラティチーム全員のスタンドが披露されて、1クール目が鮮やかに終了した。
 第2クール目に入り、主人公ヒーローサイドのお膳立てのような展開から本格的な闘争、スタンド使い同士の戦いが本格化していく。

 どのエピソードも秀逸だったが、その中でも際立って輝いていたエピソードが14話から16話まで、3話を消費して展開したフィレンツェ行き超特急の中での死闘だ。
 ブチャラティを追いかけてきたのはプロシュートとペッシの2人。プロシュートは見るからに“その筋”のベテラン。存在感があるし、発言にも行動にも納得の力強さがある。一方のペッシは潜在的な力は持っているが決定的に自信が不足している。
 ペッシは自信がないからこそこう言う――「ぶっ殺す!」。そんなペッシにプロシュートは説教する。
「おい、おめぇ。さっきからうるせえぞ。ぶっ殺すぶっ殺すてよお。そういう言葉は俺達の世界にはねえんだぜ。そんな弱虫の使う言葉はな。なぜなら俺や俺達の仲間は、その言葉を頭の中に思い浮かべたときには実際に相手をやっちまってもうすでに終わってるからだ!」
 『ジョジョ』は名言製造作品で5分おきに名言が出てくるが、この台詞はその中でも一際輝いている。しかもエピソード全体において、決定的な一言となっている。

 そんなプロシュートのスタンド「ザ・グレイトフル・デッド」の能力は範囲内の人間を無条件に老化させてしまう。ほとんどチートのようなトンデモ能力だ。密閉空間の走る列車内、「グレイトフル・デッド」の老化は猛威を振るう。
 危機を回避できたと思ったブチャラティチームは、一瞬にして窮地に立たされ、今すぐにでもペッシ&プロシュートを倒さなければならなくなってしまった。
 ペッシ&プロシュートは優位な立場にあったはずだが、ペッシは氷を入れたグラスを割られただけで慌ててスタンドを引っ込めてしまう。ミスタを仕留める確実なチャンスを得ていたはずなのに、意思力の弱さで負けてしまう。
 だがここで老人に化けていたプロシュートの機転によって、ミスタを死の一歩手前まで追いやる。ジョジョの面白さは、敵が非常に頭がいいこと。常に何かしらの策を用意し、相手を軽んじない。だからこそ緊張感ある戦いが生まれる。主要人物でも容赦なく死を突きつけてくる(死んでなかったわけだが、死んだと思わされるはずだ)。5分先どころか、1分先も展開が読めない。この途切れることのない緊張感、際どい差し合いの連続、読者の想像を常に越えてくる意外性――これがジョジョを特別な作品にしている。

 その後、ブチャラティとプロシュートの戦いとなり、ブチャラティはプロシュートを抱えて列車の外へ。アニメはここでエピソードを区切って来週へ……という演出となる。ここがまた憎い。
 列車の外でもバトルは続き、プロシュートは走る列車から転落する。ここでプロシュートは死んだかと思いきや、列車の下部、何かの機械部分に挟まって瀕死の状態で生存し、スタンド攻撃を続ける。
 ここもジョジョのいいところだ。敵を安っぽく描かない。ヒーローの攻撃でご都合主義的にやられたりせず、ぎりぎりまでしぶとく食い下がってくる。勝ったと思ったら次の瞬間にはピンチに陥る。敵であっても「精神の強さ」をしっかり描いてくれる。だからこそ面白い。

 瀕死状態でもしぶとく食らいついてスタンド攻撃をし続けるプロシュートの姿に、ペッシはようやく覚醒する。
「兄貴の覚悟が、言葉ではなく心で理解できた! ぶっ殺すって思った時は兄貴……すでに行動は終わってるいるんだね」
 ここでペッシの絵が明らかに変わる。今までちょっとギャグ調の緩さのあったペッシは、一気に劇画調の暑苦しい顔に。こういう絵の違いでキャラの変化を表現できるのがアニメ・漫画ならではのところ。声優の演技も素晴らしい。
 ここからブチャラティとペッシの、覚悟の見せ合いというべぎギリギリの戦いが始まる。殴り合うようなバトルシーンはなくなるが、むしろ緊張感が漲る。
 最終的にペッシが列車を止めて偶然にもブチャラティ復活という展開となり(ここもペッシの意思力の弱さが敗因になっている)、2人は列車の外で対峙する。ペッシはとっておきの切り札、いざという時の必殺必中の技、直線に釣り針を放ち、ブチャラティの心臓を掴む。
 ペッシの勝利! ブチャラティついに敗北!
 かと思ったそこに出た台詞が――
「ぶっ殺してやる!」

 その瞬間、形勢は逆転する。「ぶっ殺す」それは覚悟のないやつの使う言葉だ。殺しのプロが使わない言葉だ。そしてこの戦いはどちらが強い覚悟を持っているか、の戦いだ。「ぶっ殺す」この言葉を使った瞬間、ペッシの敗北が決してしまう。
「ぶっ殺してやるって台詞は、終わってから言うもんだぜ。俺達ギャングの世界ではな」
 ラストは猛烈な「アリアリアリ」ラッシュ! ラッシュで決めるのは『ジョジョ』シリーズのお約束。特撮もののラストに出てくる必殺技のようなもの。『ウルトラマン』で言うところのスペシウム光線だ。
 だがこのエピソードラストに出てくるラッシュは絶頂感すらある。危機一髪に次ぐ危機一髪で、ずっと続いた緊張感を一撃ですっ飛ばす痛快さ。必殺技は「お約束」で出すんじゃあない。ここだという絶対的な「締め」に使うんだ。そのお手本のような猛烈に気持ちいいラッシュであった。

 14話~16話は短編ものとしても秀逸な出来。列車ものとしても秀逸。見事なバトルエピソードだった。
 その後の「ベイビィ・フェイス」は珍しくちょっと緩めのバトルだったが(スタンドの相性の問題だったが)、その次の「ホワイトアルバム」がまた強敵だった。「ホワイトアルバム」は氷を操るスタンドだ。氷能力の使い手は、バトル漫画では定番の定番、よくいるキャラクターではあるが、「ホワイトアルバム」はちょっと格別。凍ることで壁に貼り付けられ、剥がそうとすると皮膚や指がもげてしまう……こういう冷気で起きる現象を武器として扱う表現はものすごく珍しいし、やっぱり『ジョジョ』的な見せ方。実にうまい。
 それにやっぱり敵を安っぽく描かない。ご都合主義的にヒーローに勝利を与えない。ホワイトアルバムも追い詰められても決して諦めず、ミスタ&ジョルノに一矢報いようと迫ってくる。まさに手に汗を握る、素晴らしいバトルだった。

 第20話『ボスからの最終指令』。サン・ジョルジョ・マジョーレ島の教会へ、トリッシュを連れていく。
 その過程で、ブチャラティはトリッシュを連れてエレベーターに乗る。
 エレベーター内特有の沈黙。トリッシュは不安からブチャラティの手を握る。ブチャラティは表示盤を見上げる。そろそろ塔上だ。
 と、振り返る――。
 トリッシュはいなかった。手首だけだった。
 この瞬間も見事だった。密室であるはずのエレベーターから姿を消すトリッシュ。ただし、手首だけを残す。密室から姿を消すという意外性に加えて、手首だけを残すというえげつなさ。荒木飛呂彦節が猛烈に決まった瞬間だ。エレベーターという密室は映画的に言ってもかなり特殊な空間で、この空間を舞台にした作品はそれなりにあるのだが、ここまでショッキングな映像はそうそうない。「荒木先生天才か」と改めて思わされた。

 こうした長編ものはどこかしら中だるみの間が生まれるものだ。物語を移動させることが目的化して、その間のエピソードがどうも薄味になる……ということがよくある。が、『ジョジョ』にはそんな間がない。話が進むほどに、むしろ緊張度が上がっていく。毎週毎週が待ち遠しくなる。週刊誌で毎話安定したヒットを出さねばならない、18ページを安定して面白い漫画にしなければあっという間にアンケートで蹴落とされ、連載を打ち切られてしまう『ジャンプ』システムを勝ち抜かればならない環境だからこそ生まれたストーリーラインだったかも知れないが、それ以上に荒木先生の才能が力強く漲っている。
 それにしたって毎回のように出てくる名シーン、名台詞! ただ面白いだけではなく、突き抜けてくるエネルギー! 『ジョジョ』の凄さを毎週のように確かめられる状況が幸福だった。

 『ジョジョ』第5部は“バトルもの”だ。“バトル漫画”の描き方は非常に簡単。最初の敵より、確実に強い敵をその次に出していけばいい
 だがこれは「言うは易く行うは難し」の典型例で、難しいからこそほとんどの作家は蹴落とされていく。シンプルだからこそ、最も難しいルールだ。ラストまで達成できた漫画は「名作」としてその後も讃えられるが、それは物語の終幕まで描き切れたから。それ以外のおよそ99%のバトル漫画は脱落する。
 “最初の敵よりも、確実に1つ上に感じる敵を出す”。誰でも3つくらいまではなんとかなるが、それ以降、行き詰まる。いかにアイデアを出していくか、デザインを出して行くか、エピソードを展開させていくか。どんな作家だって「次の一手」に悩むはずだ。無限に表現をアップデートさせられる作家なんているはずがない。

 「バトル漫画」で長寿連載となってしまった『ドラゴンボール』はこれに相当苦労したはずだ。天下一武道会の戦いで“地球最強”となって完結するはずだったものが編集判断で「もうちょっとだけ続くんじゃぞ」となり、舞台は宇宙へ、宇宙最強と戦い、それでも終わることができず……。
 『ドラゴンボール』にとってある意味での不幸は未だに続いてしまっていること。これ以上、いかに“強さ”を画で表現していくか。最近の『ドラゴンボール』は見ていないけれども、行き詰まりとの戦いになっているんじゃないかと思う。

 “最初の敵よりも確実に強く感じさせる”にはどうすればいいか。ダメな例が台詞情報だけで説明してしまうやり方だ。情報だけで「凄い」「強い」といくら並べられても読者には伝わらない(この手はむしろギャグ漫画に使われる)。漫画は絵――キャラクターあるいはエピソードで見せなければならない。漫画の絵で、いかにその敵が恐ろしいか、脅威か……読者に“絶望”を感じさせねばならない。登場人物が感じている“絶望”と同じ絶望を共有させること。この“絶望”をコントロールできれるようになれば、エンターテインメントとして成功だ。
 次なる敵は確実に強くしなければならいから、四天王の一人目は一番弱くなくちゃあいけない。もちろん「設定上弱い」ではダメだ。確実に、間違いなく「強い!!」と読者に感じさせなければいけない。『ドラゴンボール』はひたすらに直線上に「強い!」「強い!!」「強い!!!!」を重ねていって、物語の軸は潰れてしまった。
(バトル漫画とはいえ、「物語的なお題」は当然あり、それを達成・完了することを目的として物語が進行していく。この達成目標の終着点と、最強の敵の描写が重なれば、バトル漫画として大成功だ。『北斗の拳』はこれが鮮やかに決まった名作だ。『ドラゴンボール』は延長に次ぐ延長で、達成目標を完全に見失ってしまった作品だ。『ドラゴンボール』はある地点までは名作であったが、今では「名作」という言葉だけが一人歩きして虚ろになってしまった)

 『ジョジョ』第5部はバトルものではあるが、アプローチの方法としては直線にどんどん強い敵を投入していくのではなく、いかにキャラクターの個性を押し出していくか。パワー対決ではなく、知恵を絞り出して、いかにして勝てる方法を見出すか。このルールの上で主人公も敵も、慎重に相手の能力と強さを探り、最後の最後で主人公が弱点を突いて勝利を獲得する。ここにカタルシスを置いている。ペッシ戦のように、能力的な弱点ではなく、「覚悟の強さ」という物語上のキーワードで対決が決するものもある。ある意味、キャラ全員に割り当てられているスキルポイントの総量は一緒だ。
 その上で、ラスボスだけ明らかに強さの段階を1つ変えていく。DIOの「ザ・ワールド」は時を止めてしまう。吉良吉影の「キラークイーン」は時間をその日の朝まで戻してしまう。第5部のボス「キング・クリムゾン」は時間を消し飛ばしてしまう。無敵としかいいようのない強敵を最後に出してきて、これまでの戦いにあった困難さのさらに上を表現してしまう(「強さ」を「画」で表現している。バトル漫画描写のお手本のようだ)。
 『ジョジョ』はラスボスとの戦いが終わると、その世界観での物語が一旦収束する仕掛けになっている。主人公の成長インフレも一旦終わり。舞台も時代も主人公も変更し、もう一度最初からとなる。スタンドを知ったばかりの若者が主人公となって、物語は再スタートする。
 これがやっぱり賢いところで、この手法を使えばキャラクターの過剰な強さインフレを抑えられるし、舞台やキャラクターを一新させられることで、再び作品に生命を与えられる。世界観やキャラクターが時代遅れにもならない。あとは作者荒木飛呂彦先生のバイタリティの問題だけども、そこは荒木先生の凄さ。次々と新しいキャラクターが生み出され、毎回のように「なんだこのスタンドは!?」とキャラクターと同じ気持ちにさせてくれる。ものの見事に読者の“絶望感”をコントロールしている。
 結局は「そこに痺れる!憧れるぅ!」の一言が全てだ。この言葉は荒木先生に贈りたい。『ジョジョ』はいつまでも面白い。

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