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映画感想 人斬り

 今回視聴映画は1969年公開『人斬り』。現在もブルーレイにもDVDにもなっていない作品で、現状Amazon Prime Videoでしか観られない作品だ。
 作品が制作された経緯から入っていこう。
 この頃というのは映画産業が衰退しつつある一方で、テレビ業界が勢いを増していた。テレビは新たに通信機器、放送機材などの設備を拡充する必要があり、そのために資金を求めていた。そういった「予算獲得」を目的にして、フジテレビ内で映画制作の企画が生まれた。その第1弾企画が1969年『御用金』。東宝子会社・東京映画と組んだ作品で、仲代達矢、中村錦之助、浅丘ルリ子、丹波哲郎といった豪華出演陣に、五社英雄監督のアクションシーンが話題となり、大ヒットとなった。
 その第2弾企画が本作『人斬り』である。フジテレビは勝プロダクションに企画を持ち込み、撮影は大映京都撮影所。脚本にはヒットメーカー・橋本忍。主演の岡田以蔵役に勝新太郎が当てられた。
 勝プロダクションは1967年に立ち上げられたが、その第1回作品、第2回作品ともに批評・興業両面において失敗しており、「勝プロ存続の危機」がかかっていたために、このフジテレビの潤沢な予算を使った映画制作に飛びついた。
 勝新太郎プロダクションの映画制作だから、従来的な映画会社という枠がなくなり、主演勝新太郎を筆頭に、元日活所属の石原裕次郎、東宝の仲代達矢、それに加えて当時人気作家であった三島由紀夫も出演と、当時のオールスター的な豪華出演俳優が揃うことになった。
 結果的に映画は批評・興業ともに大成功を収め、配給収入3億5000万円。その年の第3位の興行成績を獲得し、キネマ旬報ベストテンでは14位となった。

 では映画前半30分のストーリーを見ていきましょう。

人斬り (6)

 1862年。文久2年土佐国。そこに剣術の才能を持ちながら、藩内の厳しい身分制の壁に阻まれて出世が望めず、貧しい暮らしをしていた男がいた。岡田以蔵だ。
 そんな岡田以蔵を、武市半平太が門下に引き入れる。
 武市半平太は土佐藩の幕末志士の一人。身長180センチを超える長身で美形、いつも冷静沈着かつ人格者。土佐勤王党を結成する党首で、門下生から心酔されるほど慕われている男だった。この武市半平太の誘いで、岡田以蔵は土佐勤王党に加わることになる。
 武市半平太は吉田東洋の暗殺を目論んでいた。吉田東洋は法律書『海南政典』を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易・富国強兵を目的とした改革を遂行する。しかしそれは保守派である土佐勤王党と対立する思想で、武市半平太は「好ましからぬ人物」として粛正を計画する。
 しかし武市半平太は岡田がまだ人を斬ったことがないことを指摘し、「人を斬るとはどういうものか、とくと目を据えてみているがよい」と告げる。

人斬り (17)

 事件当日。雨の夜道を歩く吉田洋行を土佐勤王党の一派が取り囲み、「天誅!」と叫んで襲いかかる。
 その様子を、岡田以蔵は近くに隠れて、じっと見詰める。
「天誅か……。斬る前には天誅って言うんだな。……天誅、天誅、天誅か……」
 吉田洋行は3人の刺客に囲まれつつ、刃を重ね続けるが、やがて首を斬られた時の多量出血で倒れてしまう。

人斬り (31)

 同じ年の夏。岡田以蔵は武市半平太率いる土佐尊皇党の一人として京都に上洛していた。すでに「人斬り」として多くの成果をあげており、人々から「人斬り以蔵」とあだ名されていた。薩摩の田中新兵衛と並び称されるほどの剣客となっていて、「どちらが強いか」が人々の議論になるほどだった。

人斬り (43)

 京都に出てきた岡田以蔵は、早速武市半平太の指示で、本間精一郎を京都の街中で暗殺する。
 だがその激しい戦闘の最中に、刃こぼれをしてしまう。仕方なく愛剣を研ぎ屋に出し、武市半平太の刀を借りることになる。

人斬り (58)

 本間精一郎殺しの報酬をもらった岡田以蔵は、遊郭へ行き、なじみの遊女との一時を過ごす。その遊女のおみのから、三条川原に本間精一郎の死体が頭と胴とバラバラにして置かれていると告げられる。下手人は岡田以蔵か、それとも田中新兵衛か……「でもあたいにはわかっているわ。あんただって」――あんたが真っ昼間から来るって日は、前の晩に「仕事」をしたってことだから。
 岡田以蔵は武市半平太についていけば、「世の中がひっくり返る」と純粋に信じていた。もうそうなったら、その下で一番働いた自分はきっと大出世。以前のような身分制に阻まれて、くすぶった生活もしなくてもいい。
 それに――。

人斬り (62)

 岡田以蔵には思いを寄せる相手がいた。それは姉小路公知の妹、綾だった。もし身分の高い低いが逆転したら、あの“高嶺の花”ももしかすると……。岡田以蔵はそんな夢を抱いていた。

 以上が前半30分。

人斬り (92)

 映画についてだけど、まずカメラがやたらといい。画面全体のコントラストは浅いけれど、その代わり線の密度を出すような画作りになっている。暗部を描くときも画面全体が暗くなり過ぎず、色彩の変化で見せている。
 絵面がちょっと新版画的に見える。西洋画的な陰影表現ではない。各ディテールの、やたらと整った線を強調し、色彩を淡く捉える。それでいて、フィックスの画が多い。画面の動きを押さえるかわりに、フィックスの画での格好良さ、美しさを追求している。これがいい。

人斬り (41)

 京都の町の風景を見ると、道幅がやたらと狭く、カメラが逆方向を向くことがないし、屋根のほうに向けられることもない。ということは、町のセットはさほど大きくないのだと推測できる。それでも気にならないのは、建物の線が幾何学的に並んで見えて、その線の見せ方がやたらと綺麗だからだ。この線の見せ方も、新版画っぽく見えていい。
 カメラを担当したのは当時、ド新人だった森田富士郎。後に『眠狂士郎』や『大魔神』の撮影監督を務めこの業界のトップランナーになっていくが、この頃はまだ新人。森田富士郎を抜擢したのは勝新太郎だが、森田と勝はその以前から飲み友達で、勝プロダクションの社運がかかった作品だから、馴染みがあって話せる人に任せたかったそうだ。
 五社英雄監督は森田のカメラを気に入り、構図作りは完全にカメラマンにお任せ。五社監督は役者の演技指導に集中することができた。

人斬り (80)

 五社英雄監督はフジテレビ在籍の、テレビドラマ監督だった。元々は映画監督志望だったが、試験に合格できず、やむを得ずテレビ局に務めてドラマ監督になった人だった。ドラマ監督を経て、だが映画監督は『人斬り』の前に『御用金』があったし、すでに数作務めた実績があった。
 今作『人斬り』はフジテレビから大映へと出向する形を取ったのだが、当時の映画会社はテレビの監督なんてもの格下だと見なしていた。大映の映画は世界で様々な賞を取りまくっていた映画会社というだけあって、スタッフのプライドもものすごく高かった。五社英雄監督はもともと大映に勤めたかったから、まさに憧れの映画会社にやってこれたのだが、挨拶回りをしても、どんな下っ端のスタッフも監督を下に見ていた。誰も五社監督に敬意を払わない状態での映画制作だった。
 ところが制作が始まってみると、五社監督は驚くべき演出法を試みる。伝統的な、立ち振る舞いの美しさを重視した殺陣ではなく、リアルで生々しい殺陣を描いてみせた。冒頭の暗殺シーン、吉田洋行は刺客の刀を刀で受けるが、しかし力が足りず、その刃がじりじりと首の肉に食い込んで、血がダラダラと溢れ出す。それでも吉田洋行は刺客立ちを振り切って戦おうとする。戦おうとするが、出血がおびただしく続き、次第にふらふらと力を失って、最後には倒れてしまう。これまでの時代劇にない、斬り合いが本来持っている緊張感と恐ろしさを描き出した。

人斬り (47)

 こうした生々しいリアリティを描く一方で、美意識もしっかり持っている。岡田以蔵が本間精一郎を斬るシーン、路地の格子戸もまるごと斬ってしまう。その時の画がまた格好良い。鋭角的に切り取られた線も鮮やかで、やはり新版画的な美学が画にある。
 五社英雄監督はテレビ局出身監督だが、現場が始まってみるとこの監督は大映のどの監督にもない感性と視点で映画を作っている。それが誰の目にも明らかだったので、次第に映画制作の現場は熱を持つようになっていった。

 では次の30分を見ていこう。

人斬り (64)

 岡田以蔵がいつもの飲み屋へ行くと、そこに坂本龍馬がいた。岡田以蔵と坂本龍馬は同じ土佐の出身で、お互いのことをよく知る仲だった。しかし土佐勤王党の人達から見ると、坂本龍馬はかつては同志だったがすでに袂を分かった相手……。味方ではないが、敵ともいえない、微妙な存在だった。坂本龍馬がいる飲み屋は、やや緊張していた。
 そんな状態だが岡田以蔵は気にせず、坂本龍馬に挨拶をし、二人きりで座敷に入って対話をはじめる。
 岡田以蔵は武市半平太を信じ切っていて、武市半平太の言うとおりに働いていれば世の中がより良くなると信じていた。一方の坂本龍馬は懐疑的だった。
 坂本龍馬は、岡田以蔵にこんな話を聞かせる。
 とある猟師と犬の話だ。猟師は一日中犬を追い回すが、獲物に巡り会えない。猟師は獲物が捕れないのは犬のせいにして、不機嫌になる。夕暮れが近付き、犬はようやく一匹のうさぎを見付ける。犬は小躍りして喜ぶ。これをし損なったら、飼い主の猟師はますます機嫌を悪くしてしまう。犬は死に物狂いでウサギに飛びついたが――鋭い牙は肝臓を裂き、体中に苦い血が回って、せっかく獲った獲物は食べられなくなってしまった。猟師はその犬を見て、役に立たないと思い、鍋に入れてぐつぐつ煮て食ってしまった。
「坂本。お前、武市先生が猟師で、俺は犬って訳か? アホらしすぎる。おい、坂本。お前は京都に来てまだ間もないからな。事情がわからなさすぎるんだ。土佐がいま京都で羽振りが良いのは、御大将の武市先生もさることながら、この俺がいるからだぞ」
 と岡田以蔵は座敷を離れる。
 そこに、田中新兵衛が入ってくる。岡田と並んで「人斬り」と称される男だ。田中は「近いうちに拙者一人で片付ける仕事がある」――その相手とは、坂本龍馬だという。

人斬り (65)

 土佐勤王党の一派は、近江の石部宿への遠征を計画していた。安政の大獄で倒れた志士に報いるために、土佐・薩摩・長州の三藩連合で結成された刺客団で、江戸に引き上げようとしていた京都東町・西町奉行所の4名に“天誅”を下す計画だった。
 しかし、武市半平太は岡田以蔵を連れて行かないという決定を下す。
 理由は天皇側近である姉小路公知のお叱りがあったからだった。岡田以蔵はあまりにも人を殺しすぎる。その噂は天皇の耳にまで届いており、頭を悩ませているという。そういった指摘もあり、遠征から岡田以蔵が外された。
 岡田以蔵は自分が遠征から外されたことを知らず、「あれはいつですか?」と尋ねる。武市半平太は、あの計画は見送ることになったから、岡田以蔵にしばらく安めと告げる。

 武市半平太の話を大人しく信じて、岡田以蔵はいつもの遊郭で休みを取ることにした。

人斬り (70)

 そんなしばしの休暇の間、岡田以蔵は坂本龍馬に乞われて、坂本と姉小路公知と引き合わせる手伝いをしたりした。

人斬り (74)

 しばらく平和的に日々を過ごしていたが、弟分の皆川一郎が訪ねてきて、遠征隊はすでに出発した、ということを告げられる。「黙っているように言われたけれど、どうしても心苦しくて」――それで岡田以蔵に明かしたのだった。
 すでに遠征隊が出発した! 岡田以蔵はその話を聞いて、近江までの11里8町(約44キロ)の道のりを一気に走り抜けた。するとなんと石部宿の大天誅に間に合った。岡田以蔵は乱闘の中に飛び込んでいき、次々に人を切り伏せては「土佐の岡田以蔵だ! 土佐勤王党、武市半平太の門下、岡田以蔵だ!」と叫ぶのだった。

 ここまでが映画の前半1時間。
 石部宿での戦いで、岡田以蔵は武市半平太にこっぴどく叱れてしまい、その反抗で土佐勤王党を一時的に抜けるのだった……。

人斬り (84)

 当時、岡田以蔵と並んで剣豪と称された男、田中新兵衛にまさかの小説家の三島由紀夫。小説家だから演技経験はあまりないわけだが、そのルックスの良さは定評だったし、それにこの時の三島由紀夫は体を鍛えて、剣道も習っていた。
 三島由紀夫が抜擢された理由は、監督が自主制作映画『憂国』を見たからだという。俳優ではないが、体を鍛えていたし「盾の会」を率いていたということもあって、何か普通の人にはない並々ならぬ気風をまとっていた。それが幕末のテロリスト田中新兵衛に合っているのではないか……ということで抜擢されたのだった。
 そういう経緯があって、殺陣も吹き替えなしで本人が演じた。もともとの剣道の腕前があった上に、映画の準備としてさらに剣道の師範から集中的な訓練を受けて、仕上げてきていて、撮影では鮮やかな立ち回りを演じた。石部宿のシーンでは、その三島由紀夫の殺陣を見ることができる。

人斬り (97)

 『人斬り』には田中新兵衛の切腹シーンがある。姉小路公知の殺害現場に田中新兵衛の刀が残されていたために、暗殺の嫌疑をかけられたためだ。武士の魂である刀が、知らない間に盗まれていて、しかもそれで暗殺が行われてしまった。盗まれたという時点で、すでに武士としては手落ち。それに自分が死ねば仲間達に嫌疑がかけられることはない……と考えての潔い切腹だった。
 何の因果かわからないが、この映画の1年後、三島由紀夫は自衛隊基地に飛び込んでいき、切腹自殺をしてしまう。『人斬り』が現在においてもDVDにならないのは、このためだと噂されているが……。確かに切腹自殺をしてしまったことで「曰く付き映画」になったのは確かだが、それも50年前の事件だ。それが今でも影響しているとは、私は思わない。単に映画会社が作品の存在を忘れているのだろう。

人斬り (36)

 さて、歴史物であるが、こういった作品が歴史事実に合っているかどうか……という話はよくわからない。姉小路公知暗殺の件でも、実際は田中新兵衛だったとする説もあるが、正確に誰が下手人だったのか現在でもよくわかっていない。でも映画として、それが正確であるかどうかは重要ではない。
 この作品では岡田以蔵を主人公にして、岡田以蔵がどんな人物であったのか、そこを映画の核にして、感情移入できるように作られている。こちらのほうが映画のメインテーマだ。

人斬り (35)

 しかし、実際の岡田以蔵に関する話を読むと、ただの狂人にしか見えない。
 京都で片っ端から人を殺しまくり、酒に女に博打で借金まみれ。それゆえに仲間達から見放されてしまう。岡田以蔵が投獄されたとき、土佐藩も「この男は当藩の者ではない」と見捨てるほどだった。(この辺りが、映画では武市半平太の台詞ということにしている)
 その後もまた京都に来て博打に強盗をやっているうちに逮捕されて、拷問を受けると土佐勤王党がやらかしてきた殺人を暴露。かつての仲間達を告発するのだった。それで、武市半平太や仲間達が処刑されると聞くと、喜んでいたそうだ。
 岡田以蔵が事実としてしたことを書き並べてみると、頭がおかしい奴にしか見えないし、歴史家もそのように見ていた。
 岡田以蔵を“犬”として飼っていた武市半平太も負けていない。武市半平太は表向きには美形で聡明で、落ち着いた人で、かつ人格者で愛妻家だった……ということになっている。しかし、実際には土佐勤王党を動員し、自分の意に合わない相手を門下に指示を出して殺しまくっていた。映画の武市半平太は、落ち着いて相手を諭しているように見えて、ズルズルと自分の悪事に引きずり込もうとする巨悪として描かれている。最後の投獄された後になると悪の本質を隠そうともせず、悪役笑いをはじめてしまう。

 歴史上の岡田以蔵を見ると、ただの「ヤベー奴」にしか見えないのだが、本作ではそんな岡田以蔵にも、事情があったのではないか、同情すべき内幕があったのではないか……という視点で再構築した作品となっている。歴史家的に善人と考えられていた武市半平太が実はとんでもない悪党で、岡田以蔵はこれに騙されて意のままに操られていたのではないか……。そういう視点で映画は作られている。
 とはいっても、実際がどうだったかはよくわからない。「歴史事実」として語られていることも、本当かどうかわからないし、後の研究で視点がぐるっと変わってしまうこともある。
 「なんともいえない」というやつだが、そこを「もしも」という視点を加えて再構築できるのが映画の面白さであり、醍醐味。映画で描かれていることが事実である必要はないし、事実であることを求める人はいない。感動できるかどうかであって、『人斬り』はちゃんと感動できる作品として作られている。

人斬り (54)

 映画の岡田以蔵は、ある意味の「忠犬」として描かれている。武市半平太の話す理想を素直に信じ、石部宿の遠征の時も、置いて行かれたことに気付いたとき、慌てて走って行ったのは「手柄を上げたい」とかではなく、「主に置いて行かれた」と思ったから。慌てて走って行って、「俺はここにいるぞ!」と声を上げて、主の関心を惹きたかったからだ。裏表がない、純粋さのみが岡田以蔵を動かしている。どこまでも忠実で、純粋な男だった。
 坂本龍馬は武市半平太の危険性に気付き(歴史上の坂本龍馬も危ないやつと気付いたのだろう)、幼馴染みのよしみとして岡田以蔵に警告をするが、岡田以蔵は純粋さゆえに警告を軽く見てしまう。
 そうして岡田以蔵は武市半平の手駒にされて、ずるすると奸計に引き込まれ、最後には使い捨てられてしまう。その悲劇的な生涯が映画のメインテーマとなっている。単純で純粋でお人好しで、なのに才能を持っているから、悪いやつに騙されて悪党に仕立て上げられてしまう……その哀しさだ。
 悪党・岡田以蔵こそ、あの時代の犠牲者だったかも知れない。そんなもしもを、映画は情緒たっぷりに描いている。

人斬り (89)

 映画を観ていて不思議に思ったのは、悲劇的な場面こそ、明るいBGMが流れることだった。「対位法」というやつだが、この作品の場合、悲劇的な瞬間は「解放」ということだったかも知れない。
 岡田以蔵は武市半平太に見捨てられ、その背景に明るいBGMが流れる。でもそれは、武市半平太の手駒という立場から解放されたということだが、しかし岡田以蔵は尊敬する師に見捨てられたと思い、哀しみに暮れる。映画も哀しみのトーンだけど、BGMだけが不思議と明るい。それはもしかしたら、「解放」のほうに目を向けるようにしたかったのかも知れない。ただ、岡田以蔵自身はいいように使われていることになかなか気付けなかったのだが。

人斬り (102)

 1969年の大ヒット映画というだけあって、内容は面白かったし、クオリティも高かった。この時代の日本映画が、まだ世界に通用するクオリティを持っていたことがよくわかる。
 岡田以蔵を演じた勝新太郎も良かった。豪快だが単純でお人好しで、それゆえに悪いやつの奸計に飲み込まれていく岡田以蔵に勝新太郎はぴったりの配役だった。岡田以蔵は単純ゆえに意に合わないことを言われると悪態をついたりするのだが、そういう姿ですら可愛く感じられるのも、勝新太郎がもっている愛嬌ゆえだ。そういう愛嬌を天然で出せる俳優は、やはり勝新太郎だけだっただろう。
 カメラも美しい。どのシーン、どのカットを見ても構図が見事。画作りがいいので、いくらでも見ていて飽きない作品だ。
 ただ引っ掛かりもあって、カメラは基本的に美しかったのだが、なぜかピントがぼやけているカットがいくつかあったこと。もう一つ気になったのは、編集。もうちょっと間を詰めて描いても良かったんじゃないかな……と思うところが多数。風景描写にしても、微妙に長く感じたし、岡田以蔵が近江へ走るシーンも、もうちょっと尺を短めにしてもよかったんじゃないかな、という気がした。このテンポ感が当時の感覚だったのだろうか。
 あとやっぱり字幕が欲しかったなぁ……。2回視聴したわけだけど、どうしても聞き取れない勝新太郎の台詞がいくつかあって……。人物名もよく聞き取れないし、現在にない表現や言い回しになると、本当にわからない。Netflixには大抵の作品に字幕がついていてありがたいのだけど、Amazon Prime Videoにも字幕が欲しい。日本語だから全部聞き取れるか、というとそんなわけはなく、台詞の正確な把握のために字幕が欲しい。
 そんな引っ掛かりも、まあ枝葉のようなものだ。基本的には1969年の大ヒット映画。現在もDVD化されていないが、堂々とした名作の気風漂う傑作である。


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