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文学と宗教 ――加賀乙彦の場合――

コラム ☕「tea for one」

文学と宗教

――加賀乙彦の場合――

 作家が信仰に目覚めた途端に小説作品が硬直し、そのダイナミズムを失い、要するにつまらなくなる、ということはしばしば言われることだ。よく例にあげられるのはトルストイ。キリスト教信仰に覚醒した後に書かれた『復活』のつまらなさ! 大江健三郎氏の反戦・反核に関するエッセイ(ルポルタージュ)の紋切り型!

 したがって、無論、ここで言う「信仰」とは宗教に限らず、なんらかの思想・信条をも含む。

 加賀乙彦氏がキリスト教の洗礼を受けたとの新聞報道に接したのは確か80年代の半ばだったとかすかに記憶する。1985年に発表された『湿原』には主題的にその影を落としているような気がするが、その後はむしろキリスト教の教説めいた主題は影を潜めている。

 だが、今述べたこととは矛盾するようだが、むしろ加賀氏には『雲の都』において信仰の問題を追求してもらいたい、と密かにわたしは思っている。わたしは必ずしも宗教・信仰はドグマにはならない、必ずしも人を独善の檻へと閉じ込めない、そう思っている。人が自らの相対性を自覚している限り、また、そこにしか神という絶対が宿らないと自覚している限り。

 『雲の都』においてこれからも主人公・悠太には、神の問題と出会うまで、苦難の途が待っているとは思う。現実という苦難の中で、いかにして彼は神と遭遇うのであろうか?

🐓

(初出『鳥』第12号・2002年12月・鳥の事務所)


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