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構築的な長篇小説の伝統を復権  加賀乙彦長篇小説全集全18巻刊行

構築的な長篇小説の伝統を復権

加賀乙彦長篇小説全集全18巻刊行

■『加賀乙彦長篇小説全集』全18巻・2021年5月~2024年8月・作品社。

■3,800円(税抜き)。

■選集(現代日本文学・長篇小説)。

■初回配本は第6巻『錨のない船』2021年5月25日発売予定。

 重厚なテーマとともに、構築的な長篇小説を書かせたら、現代日本では右に出るものがない加賀乙彦の長篇小説全集がこの5月に刊行される。

 「長篇小説全集」と銘打たれているが、残念ながら幾つかの作品の漏れがあり*、「全集」とは言えない。「選集」というべきであろう。

* 以下の8作品が収録されていない。『頭医者事始』(毎日新聞社 1976年、のち講談社文庫)『頭医者青春記』(毎日新聞社 1980年、のち講談社文庫)『頭医者留学記』(毎日新聞社 1983 のち講談社文庫)『スケーターワルツ』(筑摩書房 1987年、のちちくま文庫)『ヴィーナスのえくぼ』(中央公論社 1989年 のち中公文庫)『海霧』(潮出版社 1990年 新潮文庫)『生きている心臓』(講談社 1991年 文庫)『夕映えの人』(小学館 2002年)

 とは言うものの、初期から中期の作品がすでに入手が困難になっている状況を考えると、こうした形で作品が纏められるのは、往年の加賀読者にとっても、また、とりわけ、ここから加賀乙彦に接するであろう若い読者にとっても幸いなことである。

 『宣告』や『湿原』から入った読者にも、とりわけフランス留学を扱った最初の二作『フランドルの冬』及び『荒地を旅する者たち』は是非とも読んでもらいたい。「若い」ということの皮膚の裏側に剃刀を当てて不快な音を立てて擦り付けるような、一種異様な読後感を与える作品だ。後にも述べたが、その「世界感」、そこの「空気の重圧」を感じ取ることができるほどだ。そこにあった空気は確かに重いのだ、呼吸すらも苦しくなるほどに。

 不幸なことに、加賀の作品について多くの論者は多くを語らなかった。

 われわれは、本来であれば、加賀について、いくつかの論点を考察しなければならない。

 先に「重厚なテーマ」を持つとしたが、それを何か思想上での解決を図らず、作品を作品の中だけで構築しようとしたことがまず挙げられる。例えば、これは戦後日本の三大長篇「思想」小説*とでも目されるべき、埴谷雄高『死靈』(1948年~1995年)、大西巨人『神聖喜劇』(1978年~1980年)、野間宏『青年の輪』(1947年~1970年)と比較することで加賀の特異性が分かるかも知れない。

* 埴谷雄高『死霊』全3巻(ちなみに「しりょう」ではなくて「しれい」と読む)は講談社文芸文庫で入手可能。大西巨人『神聖喜劇』全5巻は光文社文庫で入手可能。野間宏『青年の輪』全5巻は古書店で入手可能(単行本は河出書房、文庫は岩波文庫)。

 あるいはほぼ同世代で、留学・海外渡航経験の比較などが考えられる。北杜夫、辻邦生らが浮かぶ。とりわけ北については同じ医学者の家系を持ち、自身も精神医であった。ここをどう考えるか。

 また、『永遠の都』などに見られる「語り」、すなわち誰が、どのように語っているのかという問題は考察に値すると思われる。

 無論、キリスト教信仰と文学作品の問題も遠藤周作などと比較することで新たな相貌が窺えるやも知れぬ。

【加賀乙彦長篇小説全集内容(刊行予定年月)】加賀乙彦長篇小説全集 一 フランドルの冬(2021年8月)加賀乙彦長篇小説全集 二 荒地を旅する者たち(2021年11月)加賀乙彦長篇小説全集 三 帰らざる夏(2022年2月)加賀乙彦長篇小説全集 四 宣告 上(2022年5月)加賀乙彦長篇小説全集 五 宣告 下(2022年5月)加賀乙彦長篇小説全集 六 錨のない船 加賀乙彦長篇小説全集 七 湿原 上(2022年8月)加賀乙彦長篇小説全集 八 湿原 下(2022年8月)加賀乙彦長篇小説全集 九 高山右近/ザビエルとその弟子/殉教者(2024年11月)加賀乙彦長篇小説全集 十 永遠の都1 岐路(2022年11月)加賀乙彦長篇小説全集 十一 永遠の都2 小暗い森(2023年2月)加賀乙彦長篇小説全集 十二 永遠の都3 炎都 上(2023年5月)加賀乙彦長篇小説全集 十三 永遠の都3 炎都 下(2023年5月)加賀乙彦長篇小説全集 十四 雲の都1 広場(2023年8月)加賀乙彦長篇小説全集 十五 雲の都2 時計台(2023年11月)加賀乙彦長篇小説全集 十六 雲の都3 城砦(2024年2月)加賀乙彦長篇小説全集 十七 雲の都4 幸福の森(2024年5月)加賀乙彦長篇小説全集 十八 雲の都5 鎮魂の海(2024年8月)

 さて、ここで、この「長篇全集」の内容について各作品ごとに詳細に論じるべきではあるが、一旦ここでは2002年に『雲の都』の第一部が刊行された折に書き残した「架空問答」を再掲載することで代えさせて頂き、ありうべき「加賀乙彦論」については他日を期したい。ご了承を乞う。

 

加賀乙彦『雲の都』を読む

◆加賀乙彦『雲の都 第一部 広場』 2002年10月25日・新潮社。

459ページ、2100円、初出『新潮』2000 年1月号~2002年5月号連載。

装画:福井良之助、装幀:新潮社装幀室。

 加賀乙彦の新作『雲の都 第一部 広場』が上梓された。一族の歴史に材を取った『永遠の都』*の続編に当たる。時代は戦後の混乱を経て、1952年講和条約発効の年。作者本人を思わせる医学生である主人公は、後に「血のメーデー事件」と呼ばれた警官隊とデモ隊の騒乱の中にいた。本稿では加賀乙彦の長篇小説の世界の魅力を探ってみた。

*加賀乙彦『岐路』(1988年)、『小暗おぐらい森』(1991年)、『炎都』(1996年)、いずれも新潮社。1997年に『永遠の都』との総タイトルで新潮文庫から刊行された。


1 『永遠の都』の続編


A  加賀乙彦の『永遠の都』3部作の続編が出ました。

B どうでしたか?
A いや、単純に読書の喜びを、物語を追いかける喜びを久し振りに味わいました。とても面白かったと言ってよいと思います。
B Aさんは昔から加賀乙彦が好きでしたね。
A そう言えばそうですね。
B わたしは加賀乙彦は余り、というかほとんど 読んでないので、あんまりどうこう言えないのですが、どうなんですか?
A どうなんですか、と言われてもかえって困るんですが、あなたはどうなんですか?
B いや、これについては面白かったですよ。ちょっと気持ちが悪いところもありましたが、面白かったです。早く続きが読みたいです。
A 気持ちが悪いって?
B あの、菜々子さんがソ連兵に強姦されちゃった時の傷の描写とか、痛そう、というか、酷いじゃん、という感じ。
A ああ、なるほどね。
B あとは主人公の悠太君がやたらと性欲を覚えるところとかね。
A まあ、しかし、それは若い男は大体そういうもんですよ。 まあ、若くなくてもそういうもんだとも言えますが。
B ……。

A ……。
B で、Aさんはどう思ったんですか?
A そうですね。今回は主人公・悠太が医学の勉強のかたわら、貧民街におけるセツルメント*活動に携わり、様々な、悠太の出身の階層とは異なる貧しい人々と出会います。この辺はなかなかいいんじゃないでしょうか。

*セツルメント(英settlement) (セッツルメント・セットルメント〉宗教家や学生などが、都市の比較的欲しい地域に宿泊所、授産所、保育所、学習塾などを設け、地域住民の生活や文化の向上のために援助をする社会事業、またはその施設。(『Bookshelf』マイクロソフト・小学館)

B でも、お金持ちの話の方が面白い。
A そうですね。前作『永遠の都』は大病院が舞台となっていましたから、そういう面の面白さもありましたね。
 あと、後半はセツルメント活動の流れで主人公達がいわゆる「血のメーデー事件」*に巻き込まれて、副主人公格の人々が重症を負ったり、逮捕されたりします。主人公が無傷に近いというのはちょっとどうかとも思うんですが、ま、実際にこうだったのでしよう**。

* メーデー - じけん【メーデー事件】 昭和二七年五月一日に行われたメーデーで、デモ隊と警官隊が衝突した事件。 サンフランシスコ講和条約発効直後だったところから、政府が会場として皇居前広場の使用を禁止したことに対する憤懣(ふんまん)と講和条約への不満などが結びついて爆発、一部デモ隊が皇居前広場に進入した。(『Bookshelf』マイクロソフト・小学館)
**ちなみに本書のタイトル『広場』はこの 「血のメーデー事件」 の際、事件の現場となった皇居前広場(デモ隊は 「人民広場」 と呼んでいたようだ) に直接は由来するが、無論、「様々な、多くの人々が集まる場」としての理念的な意味での「広場」をも意味するだろう。


B こんな酷いことって本当にあったの?

A あったんでしようね。ま、自分で見たわけではありませんから、 なんとも言えませんが。ただ、権力というのは一種の暴力装置ですから、こういう本質は今も昔も変わらないと思った方がいいいでしょう。

B そうなの?

2 「文学的強度」

A ただ、気になるのは、 ま、加賀さんご自身はどうお考えなのかは分かりませんが、これはまあ、ある種の「大衆小説」なんでしようけど、 ――つまり、推理小説や時代小説の形を取っていないエンタティンメントということですが、別にそれがいけないと言っているわけではないんです。

 例えば、恐らく加賀さんの中にある小説のモデルは19世紀的な長篇小説で、 まあ、 ドストエフスキーとかトルストイとかでしょ、 そうすると、文学的な発展がないとかどうとかという話になるんですが、大体そもそも、文学的な発展とか進歩とか、そんなもの本当にあるのか、という議論になってきて、要するに目から鱗が落ちるような、あるいは魂が駆り立てられるような心的な経験を起こす「文学的な強度」をその作品がもっているかどうかということが問題なのだから、形式や文体や主題というのは、無論大切な要素ではありますが、あくまでも作品全体から我々が受け取る全財産からすればほんの一部分に過ぎないような気もするのです。

B はあ、 はあ。

A で、 そういう風に考えてくると、 いささか、今回の作品『広場』は、もちろん、 まだ長篇作品の途中であるということを差し引かねばなりませんが、 いささか、 その「文学的強度」、というのか、 「文学的な緊張感」というのか、少しテンションが落ちているのではないか、 とも思うのです。

B そう?

A そう。

B ふーん。

A ふーん、て何? 例えば? とか尋かない? 普通。

B じゃ、例えば?

A ま、それが簡単に言えるなら世話はない。

B あそ。

A ま、しかし、そこまであなたが言うなら……。

B 別に何も言ってないよ。

A ま、しかし、そこまであなたが言うなら。これはなかなか難しい問題だけど、やはり昔の作品と較べると、という言いかたしかできない。

 元々わたしの中でも小説と言えば、重厚な長篇小説こそ本流、無論そんなことは本当はないんだけれど、まあ、そういう考え方がありました。

B はい。

A なんか、Bさん、言葉少なですね。

B まあね。それで?

A そういう中で加賀乙彦の存在はそういう本格的な長篇小説を書くことができる数少ない日本人作家という印象があったんです。

 最初に読んだのが『朝日新聞』に連載されていた『湿原』*です。

*加賀乙彦『湿原』上下・1985年・朝日新聞社/1988年・新潮文庫/2010年・岩波現代文庫。

B ああ、挿絵が印象的でしたね。

A そう、鉛筆画の野田弘志。よく切り抜いていました。今でも持っています。

B 『湿原』はわたしも読んだよ。 

A 『湿原』については一言二言言わねばならぬのですが、まあ、当時、「〈愛〉という名の袋小路」という題名で書評を書こうと思っていたのですが、結局書かずじまいでした。

B どうして書かなかったの?

A うーん、面倒くさくなったからですね。

B なんやそれ。

3 〈悪〉との対話

A 要するに、そこでわたしが言いたかったことは、これは加賀さんだけじゃなくって、日本文学全体の弱点だと思うんですが、〈悪〉がちゃんと描けてないんじゃないか、〈悪〉との対話がきちんとおこなわれてないんじゃないか、ということなんです*。  

*本稿では余り触れなかったがこの問題はかなり重要な問題だとわたしは密かに考えている。詳しくはやがて書かれるはずの(多分)、拙稿「〈悪〉の倫理学」を参照されたい。

B なにそれ?

A 例えば、『湿原』で言うと、冤罪で捕らえられた主人公が釈放されるまでヒロインが待ち続け、最後は二人の愛を確認してハッピーエンド、というわけで、例えば検察側の視点が欠けているとか、被害者の家族の視点がないとか、要するに主人公たちの愛を妨害する物理的な壁は物語の進行上登場するものの、結局のところそれらは主人公達にとってあくまでも外的な存在に過ぎなく、その辺りがわたしの言うところの〈悪〉との対話が不在である、というところなんですが、例えば、後の作品で心臓移植を扱った『生きている心臓』*という作品があります。

*加賀乙彦『生きている心臓』1991年・講談社/1994年・講談社文庫。

B それは知らない。

A そう言えば、これも新聞連載なんですが、加賀さんは心臓移植に賛成なんですね。医学者としての意見はそれはそれで構わないと思います。しかし、それをそのまま小説にしてしまうのはいささか疑問です。つまり、心臓移植に対する反対の立場、あるいはキリスト教を必ずしも信じない立場が比較的浅薄な書き方をしています。

B へー。

A 『湿原』について言えば、9割方は素晴らしい作品だと思いますので、先ほどの論点は残り1割に対する不満なんですが、ただ、その残り1割が結構大事だったりもしますけど、『生きている心臓』は個人的にはちょっと評価しがたい作品です。

B ふーん。

4 ニつの作品系列

A で、話を戻しますが『湿原』に感動したわたしは……。

B なんだ、 感動してんじゃん。

A いやいや、感動はしたんですよ。そこで、過去の作品も目を通しました。『フランドルの冬』* 、『荒地を旅する人々』、じゃなくて『荒地を旅する者たち』**、 よくタイトルを間違える……。 いやあ、『荒地……』なんかは今は文庫に入ってないんで、古本屋か図書館を探すしかないんでしょうけど、 いやもうなんか暗い話なんだけど、その濃密な世界に入りこんでしまって、わたしなんか、当時夢にまで見たほどです。

*加賀乙彦『フランドルの冬』1967年・筑摩書房/1972年・新潮文庫。
**加賀乙彦『荒地を旅する者たち』1971年・新潮社。

B どういう話?

A ああ、あのね、要するに加賀さんの作品系列は主として2系列に分かれるんです。自伝的要素が強いものと、それ以外のものにね。

B そりゃそうでしょ。

A まあ、そう言われると身も蓋もない。まず自伝的な系列を作品内世界の時間順に行くと『永遠の都』三部作『岐路』、 『小暗い森』、『炎都』、 わたしなんか『新潮』に連載中から時々目を通していましたから、ほんとに時々ですけど、未だに『永遠の都』というタイトルにしっくりいかないんですけど、まあそれはともかく、この辺りは加賀さんのお祖父さんがモデルと思われる時田利平という外科医の一族の物語で、少し北杜夫の『楡家の人びと』*に似ています。2・26事件から空襲で東京が焼け野原になるまでを描きます。

*北杜夫『楡家の人びと』1962年・新潮社。

B 『炎都』 が一番面白かった。

A そうですね。わたしもそう思います。なんか断続的に読んだせいか、それぞれが、どうも別の作品として記憶に残っていますね。

 なんか文庫に入れた時にタイトルを付け直して、手を入れたようですけど、最近は文庫も高いですから、流石に文庫で買い直して読み直すのは難しいですね。

B そうよね、なんかひどくない?

A いや、ひどくはないでしようけど、まあ、書いているうちにそうなったんでしようから仕方ないでしょうね。

 それで戦争中、加賀さんは陸軍幼年学校*に行っていたらしいんですが、その辺りのことは『帰らざる夏』**に、終戦後のことは今回の『雲の都』に描かれます。ここでは主人公は東大で医学を学んでいます。

*りくぐんーようねんがっこう(・・エウネンガクカウ) 【陸軍幼年学校】 旧日本陸軍で、陸軍予科士官学校の生徒となるのに必要な素養を与えるため、軍事上の必要を顧慮して普通学科を教授し、軍人精神を養う学校。修業期間は三年。中学一年ないしニ年修了者が受験資格者。明治ニ年に設けられた陸軍兵学寮幼年学舎が起源。東京、広島、仙台、熊本、名古屋、大阪にあった。(『Bookshelf』マイクロソフト・小学館)
**加賀乙彦『帰らざる夏』1973年・講談社/1984年・講談社文庫/1993年・講談社文芸文庫。

 そして医者になると刑務所の医官となって犯罪学を研究する姿は、主人公ではないですけど、重要な脇役として、死刑囚の濃密な生を描ききった『宣告』*に登場します。

*加賀乙彦『宣告』1979年・新潮社/2003年・新潮文庫。

 そしてその後、加賀さんはフランスに留学しますが、この辺りのことは先ほど挙げた『荒地を旅する者たち』、『フランドルの冬』に描かれます。

B ということは最初にもどっちゃうわけだ。

A そうですね、『フランドルの冬』がデヴュー作ですから、時間的には一番新しいものから書いていったということでしよう。

B まあ、そうよね。

A あと、医者になってから留学までを描いたものとしてはユーモア小説の形を取った『頭医者』というシリーズがあります。順に『頭医者事始』、『頭医者青春記』、『頭医者留学記』。 「頭医者」というのは精神科の医者を意味してるんですが、ちよっと語呂というのかネイミングが微妙でしたね。現在は合本になって『頭医者』*という総タイトルでまとめられて中公文庫に入っています。

*加賀乙彦『頭医者事始』(1976年)・『頭医者青春記』社 1980年)・『頭医者留学記』(1983年)、いずれも毎日新聞社/『頭医者』1993年・中公文庫。

B なんかつまんなそうね。

A いやこれがけっこう面白いんです。 ですが、こういう言い方はいささか問題があるでしょうが、加賀さんはいささかまじめ過ぎるんですね、多分。だからちょっとユーモア小説とかエッセイなんかは固いですね。さっきも挙げた北杜夫ですが、この領域は北杜夫の方が圧倒的に面白い。そう言えばどっちも精神科のお医者さんですけどね。やっぱ「青春記」と言えば『どくとるマンボウ青春記』*でしょう。

*北杜夫『どくとるマンボウ青春記』1968年・中央公論社。

B 同じぐらいの歳?

A いや、北さんは昭和2年、1927年の生まれ、加賀さんはその2年後の1929年生まれだね。ただ実際には北さんは……。

B 弥二さん、喜多さん。

A 違います!  北杜夫の方がデビューも早く『どくとるマンボウ航海記』なんかがベストセラーになったから印象的に大分年齢差があるのかな、 という気がしてしまう。

*北杜夫『どくとるマンボウ航海記』1960年・中央公論社。

A 北社夫ってもうちょっと隠居しちゃった感じだもんね*。

*北杜夫は2011年に亡くなった。

B そうですね、往年のファンからするといささか残念ですが、加賀さんが現役バリバリという感じからするとなんか……。

B 『楡家の人びと』の続きでも書けばいいのに。

A  そうですね、是非それはわたしも読みたいです。 『輝ける碧き空の下で』*の第二部を書くぐらいなら、『木霊』**の続きを書いて『幽霊』***を含めて三部作にするとか、ほんとに『楡家』の第二部を書いて欲しいですね。

*北杜夫『輝ける碧き空の下で』1982年ー1986年・新潮社。
** 北杜夫『木霊』1975年・新潮社。
*** 北杜夫『幽霊』1956年・中央公論社。

B 『輝ける碧き空の下で』ってつまんないの?

A  ま、大きな声では言えませんが。――余談ですね。

5 構築的な長篇小説の伝統を復権

A で、話を戻すと、あとは自伝的作品以外の系列に属します。太平洋戦争中の外交官の一族を描いた『錨のない船』*、冤罪事件を扱った『湿原』などがあります。

* 加賀乙彦『錨のない船』1982年・講談社/2010年・講談社文芸文庫。

B この『スケーターワルツ』*は?

* 『スケーターワルツ』1987年・筑摩書房/1990年・ちくま文庫。

A 『スケーターワルツ』は拒食症の話。 『ヴィーナスのえくぼ』*はまあ、不倫の話で、少し山田太一に似ているかも。いや、これはテレビドラマにすると、あの昼メロね、ヒットすると思うんだけど。

* 『ヴィーナスのえくぼ』1989年・中央公論社/1993年・中公文庫。

B 『真珠夫人』……。

*菊池寛『真珠夫人』1920年/2002年・文春文庫(なんと、解説は川端康成)。2002年東海テレビで連続ドラマ化され話題を呼んでいた。

A それは読んだことないけど。 こうやって振り返ってみると結構楽しいね。

B そう?

A ……。

 やっぱり加賀乙彦の小説世界というのは、いい意味で構築的な長篇小説の伝統を復権させたことにあるでしよう。そしてさらに心臓移植や冤罪といった現代社会を反映するテーマや戦争や戦後の混乱の中の人間を現在の視点から捉え直したといった点も重要でしょう。

B そういう作家って他にいないんですか?

A うーん、ちょっと不勉強で、ばっと思いつかないんですが、ま、それほど加賀乙彦は独自の位置を占めているような気がします。

B ふーん。

A で、そう考えると、こっからは付け足しになるんですが、これはあくまでもわたし個人の好みの問題もあるのかも知れないんですけど、 初期の無神論的な不安定な感じの方がわたしとしては何か迫ってくるものがあって、今のような安定した書きぶりだと読書としての楽しみはあってもそれを越えて何か揺すぶられるようなものがないんじゃないか、と思うんですね。

B そうかな?

A まあ、あくまでも個人的な感想です。小説全体としての評価はやはり『永遠の都』、とりわけ『炎都』に極まるとは思いますが、読後、ザラッとした感じで、心の膜をめくり返されるような気持ちを味わったのは『フランドルの冬』と『荒地を旅する者たち』だと思います。

無論、これは批判とかそういうことではないんですけど、――あの……どう言ったらいいか、要するに中期以降の作品はいささかまとまり過ぎなのかな。

B ?

A ま、これについてはいいでしよう。とくに 『雲の都』については実際まだ未完なわけですから。

B これはどれくらい続くんですかね。

A さあ、どうでしょうか。前作『永遠の都』がわりと群集劇というのか、主役が複数いたのに対し今回は比較的、医学生・悠太に焦点が絞られている気がしますね。そうすると彼が医者になるまでか、あるいはフランスに留学するまでか、あるいは小説家としてデヴューするまでか、ま、そんなところでしようか。

B そうすると、全部で3部作ぐらい?

A そうでしようね。そんなものでしょう。

 ぜひともすばらしい作品として結実することを願っています。

B そうですね。

(初出『鳥』第12号・2002年12月・鳥の事務所)

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9387字(四百字詰め原稿用紙換算24枚)


母屋はこちら👉鳥 批評と創造の試み (torinojimusho.blogspot.com)


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